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2013年4月

2013年4月30日 (火)

企画書を書くまでの流れを、自己流ながらまとめてみます①

 世の中には企画書の書き方という本があふれていますが、そういう本も役に立ちます
 
 初めて企画書を書いたのは2009年、アートスイッチvol.1で、プレゼンする相手はイオンの営業担当者でした。
 
 電話して、アポ取って、プレゼンするという流れを経験するのも初めてのことでした。アートスイッチはまだNPOではなく、グループ展の名前というだけの存在でした。
 
 そういう状態で、ショッピングモールでワークショップや作品展示を行う企画を立てまた。6人のアーティストで企画運営をする、ボランティアスタッフも10人程必要という、今同じことをやっても結構しんどい仕事です。
 
 フロアを普通に借りる場合、ン十万掛かります。普通の企業は正規の値段で借りますが、資金もないアートスイッチは値段の交渉もしなければいけませんでした。
 
 さて、白紙の状態からどう企画を立ち上げるのか。
 
 これからアートイベントを企画する為に読んでいる人は、少し想像してみて下さい
 
 ………
 
 自分なりに何をするか、見えましたか?
 
 見えた人は企画の天才と言えるでしょう。私の場合、全く何をどうすればいいのか分かませんでした。
 
 一旦、自分たちのグループが何を持っているのか、検討する必要があります。素手なのか、武器を持っているのか。最初6人集まったとき、何かを企画する段階ではまだないと思いました。
 
 企画書を書くと、一言でいいますが、書いたことがなければ、最初の企画書は人生でも最も難しい仕事のひとつになります。
 
 普通、熊本で一人でアート活動をする場合企画書などほとんど必要ないです。
 
 しかし、プロジェクトをやるとなったら必ず必要になります。特に、アートスイッチは20人以上の人が関わる、その当時は熊本でもまだ類を見ない複合アートイベントになる予定でした。という事すら企画書を書くぞ!と思った時点では見えていませんでした。
 
 ここまで書いてきて、熊本にもアートスイッチと同程度やそれ以上のアート企画がバンバン生まれればいいとずっと願っているので、全くの白紙状態から企画書を立ち上げるまでを決定的に書いてみようと思います。
 
 以前にも、企画書自体をアップしてきましたので、過去記事から合わせてご笑覧下さい。
 
 さて、アート企画を立ち上げるに際して、自分たちは何を持っているのか洗い出しました。
 
 ①それぞれのアートの専門技術、絵画、イラスト、陶芸、ファッション。
 ②それぞれが、公開制作かワークショップができる。
 ③ボランティアで手伝ってくれそうな方を、各々で頼める。
 ④頑張れば、それぞれで協賛金を集められそうだ。
 
 これくらいでしょうか。
 
 アーティスト集団としては、当たり前のものをそれぞれ持っていることを確認したかたちです。
 
 そもそもがグループ展の発展形として考え始めたこの企画、ショッピングモールと作品を
ならべるだけのグループ展の形式がなじまない、というよりお客様に無視されるのではない
かという危惧がありました。
 
 お客様に、アートに触れて頂くには仕掛けが必要ではないか、ワークショップやライブペ
イントがメインのアート企画にするべきではないのかと、話し合いを重ねるうちに固まって
きました。
 
 しかし、それだけでは将来的に熊本でアーティストが活動していくための、基礎つくりに
はならないよねという話にもなります。作品を売ったり、経済的にまわっていくための形も
いるだろうと。
 
 この辺りからは、やりたいことや、考えるべきことの話になってきます。
 
 自分たちがショッピングモールでアートイベントを開催するメリットは、アートに興味が
ない層にアピールしていくということです。
 
 それでは、ショッピングモールにとってアートイベントを開催するメリットとはなんぞや?
 
 自分たちがやりたいことと、相手にとってのメリットが揃って初めて企画になります。自分たちの要望のみを押し付けるようなやりかたでは、おそらく交渉のテーブルにもつけないでしょう。交渉相手はアートの基礎知識がないのです。お互いに、話をかみ合わせなければいけません。
 
 周りの企画者を見ていると、その点の議論や打ち出しがあまりないように思えます。アートイベントに限らずです。
 
 うん、やりたいことは分かったけど、それでうちのメリットはなに~?
 
 ということになります、相手は仲間ではなくてビジネスパートナーなんですから。
 
 今回はこの点が一番重要なポイントです。
 
 自分たちがやりたいことは、すぐに出てくるでしょう。それを、自分たちだけでやるんだったら、このブログ記事は何の意味もありません。協力してもらえる社会のなかの誰かへ、説明する道具が企画書なのです。
 
 このポイントはつきつめると、アートが社会の中でどう機能するのかを実践していく、という姿勢になります。
 
 そうするとアートとはいったいなんぞやというどつぼに一回ハマル必要があります。
 
 徹底的に考えたか?
 
 アート企画というアウトプットに、如実に反映しますから、絶対に必要な過程です。
 
 では次回は、その先の流れを。
 
 サリュ
 

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2013年4月28日 (日)

やっと趣味が見つかったようです。小説書いてみます。

 趣味なので、本当に細々とですが、小説を書くことにしました。

 現代アートとは全く無関係の、ミステリー、冒険、青春?のようなものです。
 趣味なんで、改めて発表します!みたいなことはありません。
 章毎、書きあげたらアップしてみようかと思います。出来がイマイチだったら、アップしません…
 今まで生きてきて、初めて趣味を見つけた感じですが、このことに関しては本当に無責任に書きちらしてみたいと思います。
 せっかくブログを持っていることだし、ここを利用して趣味の小説をアップしてみるというのも一興かなと思います。
 先に、小説投稿サイトに上げてみて、反応みてブラッシュアップしてここに投稿します。もう本当に、あくまで趣味なんでお恥ずかしい限りなんですが、気が向いた方はお付き合い下さい。
 文字のファンタジーも、難しいですよね。
 サリュ

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2013年4月26日 (金)

1995年公開、映画アンダーグラウンド。何食ったらこういう映画を撮れるんでしょうか。

 どんな状況でも、生き抜くしかない。自分の立場で。
 半狂乱の演出、つねにハイテンション、しかしよく考えたら相当悲惨な話なのに、この爽快感は何でしょう。
 最近気分が落ちることが多かったのですが、この映画を体験するとドーピング効果があります。
 170分という長尺ですが、半狂乱のテンションが落ちることは全く無く、正直120分あたりで胸焼けをおこしそうになるのですが、後半のストーリーとエンディングで胸焼けを強引にひっくり返す力技を見せてくれます。
 イデオロギーに満ちているのに、各個人の人生の力強さが前面にきて、完全に物語の構造の遠近感を狂わされます。ひとつのことを主張したいのではなく、すべてを主張する。
 こんな映画ないですよ。
 悲惨な状況に自己憐憫にならず、欲しいものの為には親しい者すら裏切る。求め続ける大切なもの。
 命を燃やし続けるというのは、こういうことなのかと納得します。
 馳星周の小説の読後感と、とても似ている気がしました。
 どこから説明していいかも分からない、凄い作品なので、紹介しました。
 サリュ

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2013年4月23日 (火)

超個人的絵画論。

絵画=描いた人。
 だから、描いた人を分析することになります。
 何年に生まれたのかな?
 成年するまでどう過ごしたのかな?
 どういう経緯で絵を描き始めたのかな?
 誰に傾倒したのかな?
 どのアートテクストを取り入れたのかな?
 どんな恋愛したんだろうか?
 好きな食べ物、音楽、本、映画。
 発言、行動。
 人間活動の全て。
 をできるだけ鑑みて、自分以外の人の作品を見ている。
 自分の作品も、そういう見られ方を望む。
 只の絵の具と支持体、それ自体は物質に過ぎない。
 そこに自分として表現しうる何かを、限界まで注ぎ込んであるかな?
 技術を誇示しているだけなんじゃないか?
 営業努力?
 引用だけで成り立つのかな?
 オリジナリティーについては、実はあまり興味がありません。
 より多くの人がいいと思うものは、オリジナリティーという面では弱いということになるから。
 より多くの人に絵を見てもらいたいと望むから。
 人間は社会に適応できるように、小さいときから社会の鋳型にはめ込まれる存在だから。
 全ての問いに答えはありません。
 そういう問いを、絵画という只の物質に閉じ込めようという行為が好きなだけです。
 カッコイイ、カワイイ、スゴイ、オシャレ、ワルイ、エコ、に見られたいと思っているのかな?
 社会の問題を反映しているのかな?
 切り込む角度は際限ありません。
 絵画=描いた人。
 必要なのは、表現する覚悟だけなのかも知れません。
 サリュ
People painting = painted.
So, you will want to analyze the person who drew.
The years I wonder if I was born?
What I wonder if spent until the age of majority?
I wonder if I started to paint in what circumstances?
Who I wonder if committed?
I wonder if incorporating any text art?
I wonder did you love what?
Food, music, books, favorite movies.
Speech, behavior.
All human activities.
In view as much as possible, we are watching a work of others from.
Also his work, I hope such a way seen.
And the support of paint only, it itself is only material.
I wonder if Aru poured to the limit, something that can be expressed as there own?
Do not you just have to show off the technology?
Marketing efforts?
I wonder if holds just cited?
For originality, not really very interested.
What I think a lot of people say more, because it comes to weak in terms of originality.
Because desire and I want you to look at the picture to more people.
To be able to adapt to society, because it is human existence that is fitted into the mold of society from childhood.
Do not answer all questions.
Just like the act of will confine substances only that painting, that kind of question.
I wonder if wants to be seen cool, cute, amazing, fashion, bad, eco-,?
I wonder if that reflects the problems of society?
There is no endless angle cuts.
People painting = painted.
What is needed, it may be the only prepared to express.
Salut

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2013年4月22日 (月)

熊本県、松合に行ってきました。思ったこと。

 きちんと整備された町並みです。
 ビジターセンターがあるので、観光を意識しているのは間違いないと思います。
 町の中には、だご汁定食500円!など、たいへんおいしいお食事処もあります。
 歴史資料館もあり、昔からの松合の暮らしを偲ぶことができます。
 まっちゃ朝市、松合食品などもあります。
 などと、通常の観光の思い出的な日記だったら、ここで終わりですが、今回はちょっと別視点で町を見てみます。
 松合に留まらない、宇城市の現状は厳しいです、宇城市に限らずわが町、熊本市新町も厳しいですが。
 ここに書いてあるのは、まさにすがるような希望というか、絵に描いたもちというものでしょう。
 日曜に松合に出かけても、他に観光客は見当たりませんでした。車で3分ほどのところにある道の駅不知火にはたくさんの人がいましたが。
 でも、ここのお客さんを松合に呼び込むのがいいのか、思案のしどころです。それは、よくよく考えると需要の先食いと同じで両者衰退の道だと思うのですね。
 道の駅に来る層というのは、すでに分析されているのでマーケティングは完了しているでしょう。それを利用して松合に人を呼び込むのは、安易でしょうし一時的なカンフルにはなるかもしれませんが、その道はすでにまっちゃ朝市で試されていると思います。そういうコンサルのプロを導入したら、凄い高額の料金になるでしょうし、道の駅の進化系を作りましょうとか言い出しそうですよね完全に予断ですが。ハコを作ろうと。
 宇城市は松橋の道の駅を中心に10km圏内に3つ位あるのではないかな、道の駅的なハコが。いくつ作っても、同じ需要層を割るだけで相対的には伸びないでしょうね。
 それに、白壁が整備されてから長年の間に、思いつく限りの方策は地元の方たちが試されていることでしょう。高齢化も急速に進行中で、この5年がスタートアップの勝負年であるのは間違いありません。今の現状は、閉塞しているという認識を受け止めてからでないと、次のステップを踏めません。高齢化も当然強みになるのですが。
 松合のハード面にしても、競合の町と比べてどこが強いのか。弱いのか。
 弱いところも沢山ありましたが、実はそれが一番の強みになるところなのは人間でも同じです。
 松合が今持っているハードを活用した、「松合モデル」の何かを発信しない限り現状を変えることは難しいでしょう。
 経済面からのアプローチは限界に来ている気がします。車でちょっと行ったら郊外型商業施設が林立しているし。デコポンとか農産物で6次産業と言っても、ネットで首都圏や大都市を相手にした方が効率的だし。
 あくまで白壁という地場のハードで勝負するのなら、松合の歴史と文化を活用するしかありません。
 アートNPOですので、現地を実見してサイトスペシフィックな企画も脳内に続々湧いてきました。ハード整備が完璧なので、文化的に的確であれば凄いことになるでしょう。
 全く新しいアート企画になるでしょうし、行政や現地の理解を得るのも難しいでしょうが、一瞬で脳内に湧いたアイデアが、恐らく凄く面白いことは自分には分かっています。これを説明するのが企画書なのですね。いつもアート企画の構想が湧くのは一瞬で、「見える」という感じです。それは説明できない感覚なのですが。
 企画書を書くというと、仕事になってきますので要請があれば書きますけれども、今回はアートという角度からの提案はかなりできますよという報告だけこのブログでしておきます。
 アートNPOの仕事となると、予算も必要になってきますからね。
 サリュ

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2013年4月17日 (水)

パステル画制作中、以前とは大きく変化し始めています。

一人の美術家として、東日本大震災以降の態度(作品)を表明しなければと思いながら制作し続けています。
 あの地震が、津波や地震の直接被害だけだったら、もしかしたら神戸の震災と同じ態度で受け止めて作品制作までいかなかったかも知れません。毎年どこかで天災があり、メディアの発達でいつも天災が起きているような錯覚さえ覚えます。
 天災による犠牲は、悲しいですしつらいですが、諦念もあることは確かです。それほど日本は天災が多い国です。地震に加え、大雨、台風まであります。
 しかし、福島第一原発の事故は全く違います。明らかに人災でした。
 津波に対する東電の対応とか、事故後のとか、そういう逐一の事象を言っているのではなく原子力を未熟な科学力で制御しようとした原発のありかた自体が人災という事です。
 バベルの塔の話を思い出します。
 人々は洪水を起こす神への復讐として高い塔を建設しますが、神は人のその姿を見て「言葉が同じだからこのようなことがおこるのだ」と考え、人々に違う言葉を話させた。結果人々はバベルの塔からバラバラに去っていった。
 天災が起こった後の、日本人の被害に対する対応は世界中が賞賛する位の素晴しさです。毎回そうです。一致団結した姿は本当に凄いと思います。
 しかし、原発の事故は日本国民の態度をバラバラにしてしまいました。
 原発への態度が何故バラバラになったかは、皆さんが日々触れている多様なメディアで扱われているのであえて言及はしません。
 只ひとつ分かったのは、完璧な科学技術など望めないということでした(カオス理論)。
 あらゆる意味で、失敗しない科学などないのに、安全神話を信じてしまった。人は自分に都合がいいように物事を解釈するように出来ている。
 日本国内に物理的に進入できない場所(結界)を生み出してしまった、これは人類の進歩という意味からすると、明らかに2歩も3歩も後退してしまった現実。
 まずはこの現実を受け入れることからスタートしたいと思いました。
 以前から、世の中の事象にリンクして作品を制作してきました。90年代から0年代初頭の「終わりなき日常」から急転直下、「いつ終わるか分からない日常」に変化しました。わが国はこんなにも脆弱な基盤の上にあったのかと、驚く程です。
 「終わりなき日常」の中では、外部の変化はほとんど感じられないため、どうしても作品制作の視点は自分の中を見つめることになります。自分というどん詰まりこそが、今の日本の姿ということになります。
 リーマンショック辺りから予兆はあったのですが、震災と原発事故で、日常は突然一変することが皮膚感覚で分かりました。
 そうなると、制作の視点は自分ではなく、社会へとシフトします。そうならざるをえません。外部要因で生死に関わる影響が自分に及ぶからです。
 そのとき、どのような作品を制作するのか。今までとは違う価値を追求しなければならない。
 美術家なので、態度表明は作品で明らかにするのが筋です。
 今、パステル画と展示プランと格闘中です。
 サリュ
It will continue to work while I think as an artist of one person, and must be expressed attitude since the Great East Japan Earthquake to (work).
Earthquake is that, if you had only direct damage of the earthquake and tsunami, it might work production to be not afford to be received by the same attitude as the earthquake in Kobe maybe. There is a natural disaster somewhere every year, I remember even illusion is happening is always natural disaster in the development of the media.
It is sad then sacrifice by natural disasters, is painful, but there is also a resignation is certain. Japan is a country so many natural disasters. In addition to the earthquake, there is heavy rain, until the typhoon.
However, the accident at the Fukushima Daiichi nuclear power plant is completely different. It was clearly man-made.
It is that way itself of nuclear power plant that was trying to control immature science of nuclear power that man-made rather than to say such as support of TEPCO to the tsunami, such as after the accident, the events one by one like that.
I remember the story of the Tower of Babel.
People will build a high tower as revenge to God to cause flooding, but thought "such a thing's happen words because he is the same" and to see the human form, God spoke different languages ​​to people was. People went away apart from the Tower of Babel results.
after a natural disaster has occurred, response to damage of the Japanese is the difference splendid in the world to admire. So is every time. I think the figure which was unity and amazing really.
However, nuclear accident I have to fall apart the attitude of the Japanese people.
I do not dare mention why attitudes to nuclear power plants or fell apart, because they are treated in a variety of media that you are touching every day.
Was that not expect such a perfect science and technology we know is single, (chaos theory)
In every sense, for no such science that does not fail, I've believed the safety myth. People are able to interpret the things convenient so good to me.
Had produced the (barrier) where you can not enter physically in Japan, and this from the meaning of human progress, reality two steps and three steps also had retreated clearly.
I would like to start from the first to accept this reality.
Previously, it has been creating works by linking the events in the world. All at once from the "day-to-day never-ending" in the early 1980s from the 1990s, has been changed to "everyday you do not know when end". And whether there was on top of the foundation so much vulnerable to Japan, it is enough surprised.
Because the in the "day-to-day never-ending", is not felt little changes in the external perspective of the work produced will be that stare at in the own way. It will be what end of the line of his, that figure of Japan today.
There was a sign from the Lehman shock around, but in the nuclear accident and the earthquake, daily found in the skin feeling to be suddenly transformed.
That happens, the point of view of production will shift rather than yourself, and to society. It is not forced to be so. Influence life-threatening in external factors is because extend yourself.
At that time, do you work what works. It must seek a value different from before.
It is a muscle so artist, attitude expression is to reveal in the works.
It is now struggling with the exhibition plan and pastel.
Salut

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2013年4月16日 (火)

【かね屋情報!】今週末コンテンポラリーダンスの公演です!白木聖子さん、「砂時計」

 今週末のかね屋のアートイベントです。
 コンテンポラリーダンスの公演です。以下詳細です。
『砂時計』
踊・白木聖子
音・ROVIN
日時
2013年4月20日(土)
21時開演/20時開場
場所
かね屋(新町2丁目11-19)
チケット
2000円
【問い合わせ】
09057315905
pshns4m@yahoo.co.jp
今回は、歌手RONVINとダンサー白木聖子の共演です!
サリュ

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2013年4月15日 (月)

価値を生み出す「行為」への正しい評価が必要です。

 アートNPOを続けていくことは、正直経済的なことより精神的にタフじゃないと難しいですね。
 常に新しい事を提案していかなければ、アートである事の意味が薄れて行きます。
 新しい事、という提案は基本的に、アートスイッチが関係する地域や事柄の中から導き出されます。
 関係する対象の中から、本質を抜き出す作業が8割で、イベント企画を実行する労力は2割程度に過ぎません。実務は参考になる事例が沢山あるので、それほど大変ではありません。
 対象(地域や状況)とどう関わるかという例も、アートプロジェクトを調べていけば沢山ありますが、これが参考程度にはなっても現場ではほとんど役に立たない、それは驚くほどです。
 実際に地域でアートプロジェクトを経験すると色々分かるのですが、どこでやっても同じ効果が期待できるプロジェクトを導入するのか、そこでしかできない「何か」を抜き出してアートという角度で切り込むのか、足して2で割るのかいつも悩ましいところです。
 どこでやっても同じ効果が期待できるアートプロジェクトには当然、高い評価もすでにあります。価格も決まっています。そういう意味では、デザイン的に配置しやすいというか、安心感はあります。
 でも、それってここでやる意味がどれだけあるの?
 という疑問がついてまわる。
 もちろん優れたアートプロジェクトのコンテンツは、インプットが違うとアウトプットも若干違ってきて、ある程度の作品の鮮度は保たれる構造になっているから評価が高いのです。
 でもそれって、グローバリゼーションの構造と似ている気がして仕方ないのです。偏見ですかね。アートが持つ可能性の対極にあるというか。
 またラーメンの話になってしまった。なってないか。
 ご当地ラーメンの特化した奴がいいか、カップラーメンがいいか。
 どちらにもそれぞれ良さがあって、カップラーメンは飢えた地域をある程度救う力があります。でもそれは配給されたものを只食べるという構造なんです。腹は満たされた、さぁご当地ラーメンを作るぞ!という前段階のフェーズではないのか、今書きながら気付いた。
 そういう事か。
 ガリガリに飢えた状態で、ご当地ラーメンを作ろうとする行為が地方のアートプロジェクトなのだな。
 それはきついはずだな。
 無数の食材を地道に研究しながら、独自の味にまとめ挙げていく。飢えながら。
 最初の段階ですでに矛盾を孕んでいます。
 まだない価値を生み出す行為に、最初から値段が付くはずありません、日本という文化圏では。
 疲弊する地方では、アートに限らず今切実に必要とされているにも関わらず、初期投資がなされない。
 成功が約束されない行為に対する支援はアメリカならベンチャーキャピタルですが、日本では最近新しい公共として、NPOが担い始めています。当然、投資してもらうには厳しいプレゼンの繰り返しが条件ですが。
 新しい公共だけあってどのジャンルのNPOも新しい問題の前で立ち往生している姿をみかけます。
 新しく生み出される価値に値段が付くのは当たり前ですが、新しい価値を生み出そうというプロセスに値段を付けないと価値を生み出す回路自体がいつまでも閉じたままという状況になります。
 今の疲弊した地方の姿は、まさにこの悪循環に入っています。
 飢えた状態でご当地ラーメンの試作品をいつまでも作り続けるのにも、どこかで限界が来ます。
 今まで「飢え」を精神的なタフさのみで乗り切ってきましたが、どうやら色々問題があります。
 アートスイッチは、限界が来る前に少し状況を整理することにしました。
 今まで作ってきたラーメンの自己評価もしないといけませんし。
 飢えて立ち止まるわけには行きませんからね。
 サリュ
 Can continue to Art NPO, it is difficult if not mentally tough economic honest than that.
If you do not we will propose new things constantly, what it means to be an art that I faded.
Suggestion, it is derived from the new areas and basically things, art switch is involved.
Among the subjects involved, the task of extracting the essence is 80%, the effort to run the event planning is only about 20%. There are a lot of cases where reference is made to practice, it is not too hard.
Are examples of how involved with the (regional and state) target, but there are a lot if we look at the art project, this is of little use in the field even when the reference level, it is amazing.
Various I know if you experience an art project in the region actually, or cut at an angle or to introduce the project to the same effect can be expected wherever they do, that art is extracted can only be there for "something", 2 I will add I've just always annoying or divided by.
Of course, the same effect can be expected art project where do I even already some reputation. I have also determined the price. Or rather easily arranged in a design, in that sense, is a sense of security.
But there is much to do here, I mean it?
Question is Tsuitemawaru.
Been slightly different output and input is different from the content of the art project excellent, I'm a high rating because it is structured to maintain a certain level of freshness of the work, of course.
It's like I feel that I can not help it, but the structure of the globalization. Is it prejudice. Do you say the opposite of art is likely to have.
I've also become the talk of the ramen. That it is not.
Guy that specializes in ramen Gotouchi is better, ramen is better.
There is merit to both respectively, cup noodles have the power to save the region to some extent the hungry. It is not a structure it is to eat only what has been delivered though. Belly was filled, I make ramen Gotochi Alright! Is not that the previous phase of the stage, I noticed while writing now.
I like that it can.
With the skinny hungry, the act of trying to make here is recommended, so that such ramen It's a local art project.
Do not tight it should.
Studied steady while countless ingredients, I will give a taste of their own together. While hunger.
I'm already fraught with contradiction in the first place.
In the cultural sphere is not yet in the act to create value, not the price should come with from the beginning, and Japan.
Despite there is a desperate need now is not limited to the art, in a rural impoverishment, the initial investment is not made.
support for acts that are not promise success venture capital is the Americas, as a new public, NPO in Japan have started to play recently. Of course, to get investment is a repeat of the presentation harsh conditions.
I saw a figure you're stuck in front of the new issue of the genre as well NPO which there is only a new public.
Obviously the price of the value that is produced with a new, I will state the circuit itself to create value that remain closed indefinitely and will not put a price on the process of creating new value.
Appearance of local impoverished now, are contained in this very vicious cycle.
Also continue to make a prototype of a ramen forever Gotouchi while hungry, come limit somewhere.
Has been overcome only by mental toughness "hunger" Until now, there is a problem with many apparently.
Art switch has decided to clean up the situation a little before coming limit.
I do not and should not be self-assessment of ramen that has been made so far.
Because I could not stop starving.
Saryu

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2013年4月14日 (日)

矢折れ、弾尽きた感じ。今は。再稼働を計ります。

 この4年間、NPOアートスイッチとして様々に活動してきました。

 今年も3月にはアートスイッチバスツアー2ndを開催し、今後も継続してNPOは続いて行きます。
 始まった時から手さぐりで、今もそれは同じです。
 企画するアートイベントも年々大きくなり、我ながら赤字を打っていないだけで奇跡なんじゃないかと思っています。
 参加アーティストへは当たり前ですが、制作費をわずかながらねん出してきました。
 自分の作品が売れるでもなく、アート関連で資金が調達できる訳ではありませんでした。様々な企業協賛を募り、助成金を申請したりしてようやくやってきました。
 いよいよ企画予算が100万を越えるようになり、この規模の企画を毎年自主開催するのは不可能というところまできてしまいました。
 アートNPOが予算不足の関係で動けなくなる例は、数多く知っています。
 アートスイッチは個人からの寄付を募る形式で、運営している訳ではありませんでした。今後もそうでしょう。
 何と言いますか、まだまだ運営資金の確保への努力が足りていないのでしょう。
 事業家として、その辺の才覚がない、足りない事を自覚しています。
 今年はアサヒ・アート・フェスティバル2013に参加しています。やっと、ここまで組織が来たかと。
 ここら辺で一度、積み荷を軽くしようと思います。
 しばらく自主企画は打ち出しません。
 持ち込まれた企画を検討、実行していく事はありますが、自主予算獲得をしてまでの企画は当面ありません。
 正直、櫻井栄一としての活動を行って行く為の資金が今、底を尽いたので仕事を増やします。おそらく以前働いていたように、工場勤務になるでしょう。今、デザイン関連の仕事もしているので、仕事を二つ掛け持ちでやりながらのNPO&作品制作という事になっていくでしょう。
 地方で地方の特色を生かしたアートをやっていくのは棘の道です。
 アート企画関連で仕事を頂けるなら、大変ありがたいです。
 今年は38歳になります。
 リーマンショックのときに派遣切りにあい、様々な職につきながら今日までやってきましたが、どうやら状況は好転する事もまだなさそうです。
 でも、いつでも、ここから始まるんですよ。
 俺を諦めさせたいんなら、殺すしかないよ。
 周りに迷惑ばかり掛けてしまい、いつも申し訳なく思っています。
 アートの仕事を下さい。
 宜しくお願い致します。
 サリュ
 

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2013年4月12日 (金)

劇団どくんごの、辛島公園使用の件からの連想で、桜町再開発計画について。

 熊本市中心市街地活性化基本計画というものがあります。ご存知でしょうか。
 日本各地の中心市街地のほとんどにある計画と思います。
 NPOアートスイッチの設立動機のひとつにもありますが、郊外型商業施設と幹線道路沿いの大きい駐車場を持つロードサイド店の増加とともに、熊本市の中心市街地の通行人の数が下がり続けています。
 熊本に限った現象ではなく、地方都市はどこもそうです。
 何度も書いてきたと思いますが、根本的な解決方法などないと思います。
 この、「根本的」にやろうとする姿勢が桜町の再開発に歯止めをかけているのでしょう。
 劇団どくんごという日本でほぼ唯一のテント劇団が、辛島公園で公演したいという事で熊本市と交渉を重ねています。そのことを切り口に考えてみます。
 どくんごの活動歴を見れば、これはもう絶対やった方が話題性といいイメージといい、熊本にとっても利益しかない話です。
 で、違和感があって、交渉する部署が西土木事務所ということ。公園で文化的な事が今後開催されることはもっと増えていいと思いますが、文化とかアートとかの蓄積は土木事務所には全くない。熊本城下町大遊戯のとき、同じような交渉したんで間違いない。全く同じ対応されています。
 それはシステムが整っていないという事で、今後どうにかなると思います。しかし、どくんごの提案は傍から見れば、市街地活性化の外部からの提案のひとつにしか見えないのです。こんなことを自弁でやってくれるなんて、本来両手を合わせておがんでもいい位だと思うわけです。
 今まで、様々なところで同じような言い方で言われ続けてきたことがあります。
 「あなたの企画を通すと、今後同じような企画が持ち込まれたときに断れない」
 私の企画力不足かもしれませんが、そうは思いません。
 今までやった企画は少なくとも、熊本では同じような企画は開催されていないからです。
 もっと言えば、ストリートアートプレックスみたいな活動組織があと10組織位あったほうが、街は断然面白くなりますよね。でも実行は難しいから全然増えない。
 河原町みたいな町がもっと増えればとか、アートNPOが乱立するとか、運営が難しいから増えないですよね、簡単には。
 個別に市民から出てくるどくんごみたいな案件について、窓口もないどこに行けばいいのかアナウンスもない。当然個別の案件を精査していく経験や実行力の蓄積もない。実際町で活動しているアートスイッチみたいなNPOがそう感じているのだから、今後新規で何かやろうという組織は呆然としているんじゃないかと思います。
 これから街の活性化を考えるならば、街の文化的な潜在能力を冷静に認識してそれを個別に、そして組み合わせて、後押ししていくようなソフト面での計画&能力が必要です。
 能に代表されるように、熊本は歴史地区ですから様々な文化的な素養が高レベルで今も存在します。
 どくんごやアートスイッチのように、新たな提案もゾクゾク出てきます。
 こういうものを活用して、全く別のものと組み合わせて新しい価値観を生み出していくしか、今の閉塞状況を破るには方法はありません。
 こういうソフトを後押しする為の方策は山のようにあるはずです。
 前述のように根本的な対策に頼ろうとすると、ハードの整備に必ず行き着くのでエラーを起こしたきに引き返せない。
 という失敗を既に産業文化会館の4年間の塩漬けで目の当たりにしています。また同じことをしようとしているようにしか見えません。産文の惨状を目の当たりにし続けている市民へ、現情のMICE用のハード建設への公的資金投入の同意を得るのは至難ではないでしょうか。
 ところが、ソフト面へのトライは何度でも修正がきくでしょう。
 これから重要になってくるのは、地域の潜在能力を組み合わせるキュレーターの存在以外ありません。人だと。
 地方都市はいち早くここに先行投資したほうがいいでしょう。
 ハードを整備する何分の一かの予算で、多様性のある熊本の様々な可能性が見えてくることでしょう。
 先行投資として、ソフトとキュレーターへ。
 しかる後に必要なハードの精査へ。
 の順番でやると、凄い都市になるでしょうね。
 産文の未来絵図は再び先へ見送られました。
 どうなるのでしょうか。
 ここに書いたことは、目新しいことでは全くないと思います。
 サリュ

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2013年4月10日 (水)

結界。

  結界
 日本では日常的に昔からあるものです。
 仕切って空間を分ける装置。
 昔は塩を盛って、注連縄を張れば結界になりましたが、現代のように宗教の力が弱っている時代では、真の意味での結界の効力はかなり無くなってきています。
 なぜ結界などと書き出したか。
 現代日本に絶対的な結界が現れたからです。
 説明するまでもなく、福島第一原子力発電所です。
 もともと、原発は核分裂反応を利用して蒸気を発生させ、タービンを回して発電します。恥ずかしながら3.11東日本大震災まで、原発が蒸気タービンを回すための施設と知りませんでした。
 原爆を落とされた国が、核を使用しているのだからよほど優れた施設なのだろうと思っていたうすら馬鹿だったのです。玄海原発を10年前位に見学に行って、何も疑問に思うことが無かった、そういう人間です。クリーンで安全な施設。「そうなんだ~」平和ボケでした。核がクリーンで安全な訳ありません。
 子供のとき、ブルーハーツの「チェルノブイリには行きたくない」が発禁になったことを覚えています。その他にも様々な事故の教訓があったにも関わらず、大人になっても全てスルーしてきました。そのツケは今、現実として突きつけられた。
 科学的な意味で何重にも容器で閉じ込めた核は炉心溶融を起こし、格納容器を破りました。しかも自然災害という不可避で圧倒的な力をきっかけに。
 日本では、昔から自然災害は心理的現象としては神域に属するものでした。それが科学の粋であるはずの原発を一瞬で破壊した事実を心理現象としてどう受け止めるのか、私にはとても重要です。
 人間が未だ近づけないほどの放射線を撒き散らし、科学の力で封じ込める目処が全くたっていない現時点では心理レベルにおいては福島第一は神域と同じです。
 結界。
 最凶最悪の害を撒き散らす、破壊神。封じ込めることも、逃げることも許されない。この破壊神への対処は始まったばかりで、これからも日本へ厄災をなし続けます。
 科学力では必死の研究が行われていることでしょう。宗教面では、震災で亡くなった方々や傷つかれた方、様々な心の拠り所として必要とされているでしょう。
 アートはどうなのか。
 震災直後、様々な動きがありました。
 アートですから、現実的に何かができる訳ではありません。作品や行動に、現実に何か変える力などありません。そこで無力感にさいなまれているアーティストもいるかも知れません。
 そういう人は、アートなどせず、現実的に行動を開始すればいいのです。そもそもアートはそういう役割を負ってない。
 役割を負ったのは自分、各自それぞれで、アートではない。
 私個人としては、この、日本に立ち現れた福島第一という「結界」をアートでどう読み解き、作品にするか3.11以来ずっと考えていました。
 一人のアーティストとして、アートピースでこの結界に立ち入ることはできないのか。
 そう、アートなら結界に立ち入ることが可能なのだと。
 立ち入った状態を表現することの意味を、私は知らない。
 その状態をつくることができるのではないか。
 何故そうしなければならないのか。
 震災だけなら日本の「諸行無常」で受け流せますが、福島第一を収束させるまでは決して受け流したりしてはいけないと思います。
 しかも、喜怒哀楽では長く続けられない。宗教は現時点では事故や震災で負った傷にしか対応できていない。科学が結界を封じ込める目処は立っていない。
 アートピースならば結界がそこにあり続けていることを、主張し続けることが可能なのです。人類が滅んだ後にさえ残せる。
 自分の作品がそうなると言っているのではなく、個人的な動機としてここに書きとめておきます。
 アートにできることはそういうことだと思うのです。
 もっと簡単にいうと、キリスト磔刑図とか、ピエタとか、ここで言っている意味と全く同じです。
 今、作品を制作しています。
 サリュ
Barrier.
Age-old thing on a daily basis in Japan.
Device to divide the space in charge.
Serve with salt, a long time ago has become a barrier if stretched Shinto straw festoon, in the era when the power of religion is weakened as the modern, the barrier effect in the true sense of the word is getting quite lost.
Why did you write such a barrier.
Absolute barrier because I appeared in contemporary Japan.
Needless to explain, is the Fukushima Daiichi Nuclear Power Station.
Originally, nuclear power to generate steam using a fission reaction, we turn a turbine to generate electricity. 3.11 to the Great East Japan Earthquake, I did not know that nuclear power plant facilities and for turning the steam turbine shamefully.
I was a fool even Woo I thought might be a country very much excellent facilities dropped the atomic bomb, because you are using the nucleus. There was no place that you go to visit the Genkai nuclear power plant 10 years ago, wonder anything, it is that kind of person. Clean and safe facilities. It was a blur peace "- That's right." Nucleus is not always clean and safe.
As a child, the Blue Hearts "in Chernobyl do not want to go" I remember that is was banned. I've been all through despite the lessons of the accident there was a variety of other, well into adulthood. Now, that was posed as a reality owe.
Cause a meltdown, nuclear containment vessel in many layers in the scientific sense broke containment. In the wake of the overwhelming power of natural disasters inevitable yet.
In Japan, natural disasters as a psychological phenomenon were those belonging to the old sanctuary. what to take as a psychological phenomenon to the fact that it was destroyed in an instant the primary should be the essence of science, it is very important to me.
At the moment you are not only scattered radiation is no prospect that humanity is not close enough to still contain the power of science at the Fukushima Daiichi psychological level is the same as the sanctuary.
Barrier.
Spread harm worst most evil, God of Destruction. I will not be allowed to contain it, or you can run away. Responding to God this destruction has just begun, I will continue to form the Japan disaster in the future.
It would be a desperate research has been carried out in the scientific capability. Ya who was wounded people who died in the earthquake, in terms of religion, it would have been required as a variety of heart and soul.
What about the art.
Immediately after the earthquake, there were various movements.
Because it is art, it does not mean you could do something practical. Work and behavior, there is no such power to change anything in reality. I might have some artists that are steeped in a sense of helplessness there.
Without and art, these people, we simply start acting realistically. Art does not assume such a role in the first place.
Myself, had suffered a role in each of their own, not the art.
Personally, I think he was in art ever since 3.11 decipher what a "barrier" that Fukushima Daiichi appeared this stand, in Japan, or in the works.
As an artist of one person, or can not be going into this barrier art piece.
So, that you enter into the barrier if art is it possible.
I do not know, what it means to represent the state in which the intrusive.
Do you not be able to make their state.
Why do you must do so.
Although I think Ukenagaseru with "impermanence of worldly things" if only the earthquake in Japan, to converge to the Fukushima Daiichi and do not in any way or parry.
Moreover, in the emotions I will not continue long. Religion has not been able to address only wounds suffered in an accident or disaster at the moment. prospect that science does not contain a barrier standing.
To continue to claim, that there has been a barrier to art piece if I'm available. leave even after humanity vanished.
Instead of saying that his work is so, I make a note here as personal motives.
I think that kind of thing is to be able to art.
Put more simply, is exactly the same as the meaning of the Crucifixion or Christ figure, or Pieta, are saying here.
Now, I have to create works.
Saryu

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2013年4月 8日 (月)

トリックスター考。

 どうしてトリックスターのことをつい、考えずにはいられないのでしょう。

 閉塞した現実を劇的にかえてくれる可能性があるから?
 大昔から、閉塞した状況はありました。例えばアメリカみたいな大きい大陸での、先住民族の部落内の閉塞感といったら想像に余りあります。色んな本とかインディアンの世界観を斜め読みしてみると、とてもいいもののように描かれています。そんなにいいものだったら、「ココペリ」みたいなトリックスターは必要ないでしょう。この存在は、絶望的な閉塞感からしか生まれないものに思われます。
 向こうとこちらの世界を行き来して、新しい何かや幸運をもたらすもの。時には厄災も運んでくる。そうまでして外部と接触を希求する世界には、閉塞感があるに違いないと思うのです。本人たちはその感覚に言葉をつけていなかったかもしれませんが。
 その点、日本を鑑みるに江戸時代にココペリに相当するトリックスターが希求された形跡はありません。藩制といううまい統治制度のせいだったのかも知れませんが。日本を変えたのはトリックスターではなくて列強諸国という外圧でした。日本に閉塞感がなかったと言うつもりはありません。もちろんあったでしょう。しかしトリックスターはいなかった。藩ごとの文化の多様性を認め、細々とした情報の交流の中で多様性を担保していたからでしょう。
 今、なぜトリックスターが気になるのかというと、日本という国から多様性が失われ、均質化してしまったからではないでしょうか。
 ココペリを筆頭に、トリックスターが立ち現れる構造とはどういうものか自分なりに考えてみました。
 先ず、こちら側の世界とは違う世界とを行き来する人、存在というのが大前提になります。こちら側の世界の常識はトリックスターには「ある一面」に過ぎない。向こうの世界の常識は、とんでもないものだったりします。ここで重要なのは世界はひとつではないという多様性を、こちら側の世界に持ち込んでくることです。現れるときには、このインパクトで人々を惹きつけます。
 現代日本に置き換えて考えてみると、この構造を意識的に利用しようとした(て)いる存在を、いくつも知っています。それはひとまず置いておいて先へ話しをすすめます。
 さらに重要なのは、向こう側の世界の住人も楽園に住んでいるわけではないということです。ここで楽園を仮定してしまう存在はトリックスターではなくて理想主義者でしょう。トリックスターの存在意義とは、自分たちとは違う世界を見せてくれることで、その違う世界もまた持続可能な世界だということ。いい面も悪い面もある、異なった世界があることを知ること。
 つまり、世界の多様性を知らしめてくれる存在です。多様性のある世界の境界にいて、どの世界とも渡り合える。
 じゃあ遣唐使とかの、他の文化や制度を持ってくる人はトリックスターかと言うとそうは思わないわけです。輸入するのは、全然別の話。
 ある世界に閉塞感や危機的状況にあるときに、トリックスターの存在を、人々は考え始めます。
 もしトリックスターが単なる交渉人であれば問題ないのですが、ある一面を併せ持ってこそ社会的なインパクトを持つことができます。交渉人や外交官は利害を調整する役ですが、トリックスターは利害とは無縁のところにいるからこそ、インパクトと多様性を持ちます。
 そして、多様な世界を知るからこそ、閉塞感や危機を打ち破る行動を「利害抜き」に行う存在です。なのでこちら側の世界の利益に対して、破壊的な影響を与える事を躊躇しません。むしろ破壊することで新しい世界への可能性を生もうとします。破壊に見える行いも、別視点からすると創造なのです。
 ①多様性を知っている。
 ②多様な世界の境界で、自在な視点で渡り合っていく。
 ③自分の利害とは無縁。
 ④創造者であり破壊者。
 という面があるのかなと。
 人間がこれをやろうとすると、恐らく命を狙われるでしょう。
 もし理想や目標があるならトリックスター「的なところ」に留まって行動すべきと思いますが、本物なら「的なところ」の意味すらわからず行動するでしょう。
 ここで重要なのは、トリックスターは多様な世界の境界にあるものであり、世界の内側から継続可能な世界を運営していくものではないということでしょうか。
 日本が継続していく為にはどちらも必要ですが、今の閉塞感は「日本の運営」側が擬似トリックスターとして「金」を世界の境界に配置して問題を解決しようとしていることから生まれているように思えて仕方ありません。
 「金」は「万能」、万能はトリックスターの一面ですがどうでしょうこれ。「金」を調停媒体に選ぶ世界に希望は持てますか?
 それとも他のトリックスターを待ちますか?
 サリュ
Just that of trickster, why you would not be in the stomach without thinking.
Since there is a possibility that will dramatically change the reality that the obstruction?
http://ja.wikipedia.org/wiki/% E3% 82% B3% E3% 82% B3% E3% 83% 9A% E3% 83% AA
From time immemorial, there are situations in which the obstruction. There is too much to imagine said in big continent like America, and the sense of stagnation in the indigenous villages, for example. And try to read an oblique view of the world of the book or the various Indian, has been depicted as a very good thing. Should not be necessary trickster like, "Kokopelli" If it was so much good stuff. This presence is thought to those born not only out of a sense of desperate obstruction.
Those coming and going here and across the world, something new and bring good luck. Sometimes also bring disaster. In a world where the pursuit of contact with the outside to do so, I think there must be a sense of stagnation. As you may have not put the words in the sense that people themselves.
In that respect, there is no evidence that the trickster Kokopelli in the Edo period, which corresponds to the view of Japan has been demanded. It was perhaps because of the system of governance that good clan system. I was external pressure countries that Japan had changed the powers, rather than the trickster. I'm not going to say that there was no sense of stagnation in Japan. Course would have been. Trickster but had not. Because I would have to guarantee the diversity in the exchange of information to recognize the cultural diversity of each clan, had many more.
As for now, why would it care and trickster, diversity is lost from the country of Japan, Is it not because they were homogenized.
Led by Kokopelli, I think in my own way What are the structures that stand trickster appears.
First, people who come and go and the world a different side of the world and here, the basic premise is that existence. Common sense on this side of the world is nothing but the trickster "One aspect of that." Common sense in the world over there, or something outrageous. Is that you have brought to this side of the world, the diversity that the world is not the important one here. when they appear, I attracts people in this impact.
Come to think of it replaced by modern Japan, I know many, the presence you are (Te) was consciously trying to use this structure. It is recommended to speak to a destination Leaving aside.
More importantly, it is that they are not meant to live in paradise is also the inhabitants of the other side of the world. Would be idealist rather than a trickster presence that would assume the paradise here. You can show me the world is different from our own, and the raison d'etre of the trickster, the fact that it is also a sustainable world that different world. Knowing that there is also good and bad, is a different world.
In other words, is the presence that will make known the diversity of the world. But the boundaries of the world of diversity, Watariaeru with any in the world.
So I do not think so and say trickster or people who bring the envoys, other cultures and institutions then. The import is a different story altogether.
When it is in the sense of stagnation and crisis situations in the world there, people start to think, the existence of a trickster.
It is no problem if the people negotiating mere trickster, then you can have a social impact what combines the one side there. Diplomat and negotiator role is to adjust the interest, with the interests precisely because there is nothing to do where, trickster has the impact and diversity.
And precisely because we know the world is the existence that diverse done "without interest," the action that breaks the sense of stagnation and crisis. We will not hesitate to be against the interests of the world on this side, so destructive impact. We will attempt to produce the possibility of a new world to destroy rather. I am also a creative act that appears to destruction, and from a different perspective.
I know the diversity ①.
At the boundary of the diverse world ②, we argue freely perspective.
Is immune to their own interests and ③.
Creator and destroyer ④.
And I wonder if there are terms.
Man tries to do this, it will be probably try to kill.
I think that should be the ideal behavior and goals remain to "place a" trickster if there is, then you will act not even know the meaning of "a place" if the real thing.
It's important to note, trickster are those at the boundary of a diverse world, it would be that I do not continue to operate a sustainable world from the inside of the world.
In order for Japan to continue is required, both a sense of stagnation now born from the fact that they are trying to solve the problem "side management in Japan" is located on the boundary of the world "gold" as Trickster pseudo There is no way to seem like you are.
What about "universal", "gold", the universal is one aspect of this trickster. I can have hope in a world where media choose to arbitrate "gold"?
Do you wait for a trickster or other?
Saryu

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2013年4月 4日 (木)

時間が掛かると思います。

 熊本市中央区新町2丁目11-19にある町屋「かね屋」で先日、吉本伊織さんの風景画&ワークショップを開催されました。
 全ての作品は、長い時間を掛けて丁寧にかたち作られていました。
 ずっと思っていた事ですが、やはりいい作品を制作する為には時間が掛かります。もちろん、そうじゃなくて素早く作ったものでもいい作品はありますが、素早く的確な作品を制作できるようになる為には、やはり時間が掛かるでしょう。
 アートスイッチが活動を始めたのは、熊本でアーティストの表現場所をつくるためです。アーティストのクオリティーをどう見ているかというと、自分が作品を制作する立場なので、基準は自分になります。
 熊本でも最近、表現する場所が増えてきました。しかし、表現のクオリティーまで踏み込もうとする場所や組織は無いようです。
 とは言っても、そう厳しいクオリティーを目指しているものでもなく、自分も含めて全国区へ通用する為のステップとしての表現場所と考えています。
 熊本のアーティストの卵と言っても、各々で考え方も全く違うでしょうし、わざわざ苦労して何かを目指すことを考えなくても友達同士でゆるくやっていこうというのも分かります。それはそれで楽しいし、自生できる状況が整いつつあるように見えるので、いいのではないでしょうか。
 しかし、作品を真剣に制作していると、もっといい作品展示場所はないのかとか、作品そのものの質を上げ続けなければならないと考えるアーティストも当然います。そういう人の作品を表現する場所として、アートスイッチは様々に活動しています。
 常に向上しようとするアーティストを紹介したり、応援する為には時間やお金が掛かります。「かね屋」の場合は、展示会場の使用費は電気料金だけになっています。展示や練習の企画申し込みがあった場合、その内容を見て提案したりそのままおまかせしたり、ガチで宣伝広報したり色々ですが、その場合の精神的コストを払っています。これも積み重なると結構高い(笑)。チリも積もればみたいな。
 かね屋は放って置けば只の空き町屋です。ここを使うクリエーションの内容を良くしていけば、全く違った景色になるでしょうし、そうなり始めています。
 時間は掛かります。いい展示や作品が、熊本ローカルレベルでそうそうある訳ではありませんし、実際にこれまでの使用例を見てみると県外からのアーティスト利用例が多いです。という事に今気付いて少し驚いています。こういう事を書くと、また企画の提案が減るかもしれませんが(笑)、気軽に展示してみても場の圧力に負けてしまう訳です。自分自身ですら、かね屋で展示する為の「機」を見ています。簡単ではありません。
 これまでの使用例を見ると、アートピースを展示する方が難しくて、ライブの方がわりとうまくいきやすいのかなと思います。
 熊本にも、色んな表現の層があっていいと思います。熊本県立美術館分館は、申し込めば大体OKの料金貸しホワイトキューブ。熊本市現代美術館は企画展、街や町での気軽な作品出展。その中に「かね屋」という、少し変な場所があってもいいかなと。
 気軽じゃないようで気軽。
 町中でアートイベントを企画するときには、その精神的コストはMAXに(笑)。さらに実質的にアーティストへ制作費を捻出しますから、経済的にも大変です。
 よく考えたら、アーティストとしても企画者としても自分には何の収入もないのに参加アーティストに制作費を出すとか、アートスイッチの理念ながら、赤字無しにやれているのが不思議です。資金確保にも時間が掛かります。熊本城下町大遊戯2012で150万円近く…
 そんな訳で、アート企画や作品制作、その他諸々にも時間が掛かります。
 次回の大きいアート企画も、もうしばらく時間が掛かりそうです。
 サリュ
Recently held a workshop & Iori Yoshimoto's landscape with ya "Kaneya" Machiya in the 11-19 2-chome, Chuo-ku, Shinmachi Kumamoto.
All works were made carefully shaped over a long period of time.
I had always thought that, it takes time in order to produce good work too. Of course, there is a good work, even those made, not so quickly, in order to be able to produce accurate work quickly, so you can still take a long time.
Art began to switch activity is to create a place of artists represented in Kumamoto. That means that there are looking at the quality of the artists, so that they produce a work position, the reference will be to you.
Recently, where to expression has also increased in Kumamoto. However, there seems to be no place or organization that tries to depress quality of representation.
That said, nor what you are aiming for quality so severe, I think the representation of place as a step in order to Spoken to national constituency, including myself.
Also referred to as egg artist in Kumamoto, I'll be completely different way of thinking in each, I also know that doing All Theatre loosely with your friends without thinking about something that aims to bother struggling. It's fun in it, so it looks like there are circumstances that can be native Totonoi while, I would not good.
However, I am of course also has produced artists think and work seriously, and must continue to raise or Is not it a better place exhibitions, the quality of the work itself. As a place to express the work of such people, art switch has been working in various ways.
It takes time and money for you to introduce artists to always try to improve, to cheer. If ya "Kaneya" is the cost of using the exhibition is the only electricity prices. If there is a planning application for exhibition or practice, or Low as proposed or see its contents, but many public relations or advertising in the damn, I have to pay the cost of mental case. This is also quite high pile and I (laughs). Like that even if Tsumore Chile.
Machiya ya Kaneya is only free if left alone. If we are good to use the contents of the creation here, I would be a completely different landscape, are beginning to happen.
I take the time. Exhibition and works nice, does not mean there's right at the local level Kumamoto, there are many examples of the use of artists from outside the prefecture and look at the example of the use of ever actually. I'm a little surprised to be aware of the fact that right now. I mean that I lost to the pressure of the field (laughs), and feel free to try to exhibit the planning proposal might be a decrease also, you can write such things. Even myself, I have seen on display at the shop bell for the "machine." It is not easy.
If you look at the example of the use of so far, I think the person who is difficult to exhibit the art piece, I wonder if those who live and breath well comparatively easy.
I also think Kumamoto, nice and there is a layer of various representations. Branch Kumamoto Prefectural Museum of Art, White Cube loan rates should apply generally OK. Contemporary Art Museum Kumamoto exhibition exhibitors casual work, in the city or town. I even called a solution to ya "Kaneya" in it, is a little strange places.
Feel free not feel like it.
To MAX when planning an art event in town, the cost of their mental (laughs). Subsidize the production costs to the artist because substantially further, it is also very economical.
I think, give or production costs to participating artists to not have any income to yourself as an artist as well as a planner, while the philosophy of art switch, what is strange Yare without deficit. Takes time to securing funds. In 2012 a large play castle Kumamoto nearly ¥ 1.5 million ...
So, production planning and art work, it takes time and other things as well.
Also planning the next big art, I will take some time for the other.
Saryu

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2013年4月 1日 (月)

今年は個展を。

 今年の頭から、ずっと今年は個展を開かなければいけないと思っているのですが、場所決めがなかなか進みません。
 これまで、料金を払って展示したのは熊本県立美術館分館1F奥のスペースだけなので、今回はどうしようか考えていたらもう4月になってしまいました。
 AAF2013ネットワーク会議で後2回東京に行くので、その機会に東京での展示スペースを探しているところです。焦ってはいませんが、時間経つの早い!
 NPOアートスイッチとしては、バスツアーをすでに開催していますので、今年は少し落ち着いた活動になります。前述のAAFもあります。
 なにより、今制作中の「朱雀 五美人図」の完成目途が立ってきました。何という手の遅さだろうと思いますが、その分密度があるパステル画が出来上がりつつあります。
 4部作の1作目。あと3作品。1620mm×900mm縦というサイズです。これが4点。展示の方法も固まりつつあります。
 とりあえず、とある展示スペースが予算付の企画公募をしているので、展示プラン込みで応募してみます。採用されたら面白いと思いますが、どうなるでしょうか。
 作品制作は膨大な時間が必要です。モチベーションが下がることはないので、時間をどう確保していくかが一生の課題になります。
 生きている間にどれくらい描けるか。自分でも多作な方ではないと分かっているので焦りますが、こればかりは仕方がありません。納得するまで描くしかない。
 個展のタイトルは「四神」展になりそうです。青龍、朱雀、玄武、白虎。今、朱雀。次、白虎の予定。
 サリュ

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