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2013年5月

2013年5月31日 (金)

計算が苦手。

 この世で最も苦手なのは、計算、算数、数学です。

 
 最も単純な「足し算」さえ、電卓を使っても覚束ない始末です。
 
 そんな自分が、今年の事業収支だの、来年の事業予算だの、賃借対照表だのをひとつずつ片付けているのがNPOアートスイッチの事務なのです。
 
 これだけ数字が苦手な人間が、どうにかこうにかやれる位ですから、普通の計算能力をお持ちの方ならまぁ、どうってことない事務作業なんだと思います。割と本気で、どうということはなかろう、と思います。が、苦手なんですね。やはり。
 
 昔ゲーセンで事務仕事していたとき、損益を毎月計算していたのを思い出しました。年間で1億円弱の売上高のところで、経費とか賃借、人件費その他もろもろの計算を深夜までやってました。芸学卒業で簿記の簿の字もなく、売上と売上高の違いすら知りませんでしたから。棚卸しのときとか、本気でやばかったです。本気で計算が苦手ですから。
 
 イベント企画を立てるとき、費用対効果、利益率、稟議書の通し方、根回しの仕方、全部ここで勉強しました。今思うと、ここの経験がなかったらアートイベント企画とか無理だったかも知れません。
 
 運命というのは、どうつながっていくのか分からないものです。
 
 プロジェクトというものを進めていくときにも、様々な計算をしなければいけません。それは数だけではなくて、人と人が会うことで起こる影響だとか数値にしにくいこともある程度は慮るわけです。
 
 アートですから、むしろ数量に変換できないものを扱うのが仕事です。この変換できないものを様々に言葉や数値で評価していきます。
 
 こういう計算は好きですね。価値を生み出し、定量評価していく基準を考えていく仕事。
 
 過去の偉大なアーティストって、割と理系というかきちんと計算できる人が多かったのではないかと、思っています。
 
 アートは本来、理系の頭脳で理詰めで構築していくものというのが常道です。
 
 ただ、アーティスト本人には完全な理論であっても、なかなか世間が理解しにくい、というのがアーティストの現世での姿に近いのでしょう。
 
 アートに関わって、鑑賞者じゃなくて当事者として生きていくのなら、あらゆる計算は得意な方が有利です。
 
 でも、苦手なんだな…
 
 サリュ
Calculation, arithmetic, what is weakest in the world is the math.
Even the simplest "addition" is not objective settlement bundle even with a calculator.
It is the office of NPO Art switch's put away one by one for a business balance of this year, it's a business next year's budget, such myself, from a balance sheet.
I think that is weak in humans, because the numbers are in I can do that somehow only this, well, who cares? With'm a office work never person if you have the computing power of the ordinary. I think really comparatively, and, would not have called if that. But, but I was weak. Again.
When I was in the office job arcade old days, I remembered it from had to calculate the monthly profit and loss. At the sales of 100 million yen weak, I was doing until midnight expenses such as rent, the calculation of labor costs other whatnot over the years. Without a character of the book of bookkeeping gay science graduate, and because I did not even know the difference of sales and revenue. Like when the inventory, it was Yabaka~tsu seriously. Because it is not good to be calculated seriously.
When planning an event planning, cost-effective, profit margins, how through the approval documents, how to pre-arranged, I studied here all. When I think back, it may have been impossible such as Art event planning if you do not have experience here.
The fate that is what you do not know what will lead.
Even when you are pursuing what's called project, and must be to the various calculations. It is not only the number, to some extent is not Omonbakaru also be difficult to to a number such as a effect that occurs in a person and people meet.
Because it is art, it is the task to be addressed things that can not be converted to quantity rather. We will continue to evaluate a number and variety of words to what you can not convert this.
I like the kind of calculation. Work to create value, and we consider the criteria continue to quantitative evaluation.
What great artists of the past, people can be calculated properly or rather science is comparatively or not were many, though.
It is common practice art is that which originally, will continue to build in Rizume in the brain of science.
However, even a complete theory in the artist himself, it's difficult to understand the world will quite close to the figure of the artist in this world.
And involved in art, If you're going to live as a party to, not the viewer, who is good at all advantageous calculation.
But, It 's not good ...
Salut

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2013年5月28日 (火)

影響受けているな~と思うもの②

 江戸川乱歩の少年探偵団の表紙&挿絵は、素晴しいというより本が好きな少年なら当時の図書室では避けては通れないものでしたね。
 
 多分実家の片隅に数多く、このシリーズが眠っていることでしょう。
 
 影響を受けた本の挿絵シリーズ、小学生編では次のシリーズが挙げられます。
 
 薫くみこ 十二歳の合い言葉 挿絵 中島潔
 
 リアルに12歳のときに読んだものです。このシリーズは、何故12歳の心のバランスを欠いた状態をここまで描写できるのか、当時も今も驚きは色褪せません。内容は女子のものですが、バランス感の危うい欠如っぷりは男子でもよく分かります。
 
 この内容と中島潔氏の表紙絵の、イメージ結合の破壊力は凄いです。おかげさまで、額の髪の生え際や、首のライン、鎖骨への繋がり等女性を描くときにこだわらなければいけないポイントを自然に叩き込まれました(笑)。
 
 この本も実家にある気がします。
 
 本は沢山読んだのですが、内容と表紙絵に受けた影響の大きさ順に書いています。絵画的に、深層心理の内に中島潔氏が描く横顔の少女がマインドセットされていることを再確認です。
 
 改めてみると、子供のときに受けた影響は、気付かないうちに作品に滲んできますね。
 
 子供にアートのコンテキストは通用しなくて、どれだけ感覚に訴えるかというね。
 
 話は脱線するんですが、アートスイッチvol.2で絵を描いてもらうワークショップを開催したとき、小学校低学年になるとみんないわゆるアニメ絵しか描かなくなるんですね。
 
 どれだけ子供のときからアニメを見ているのでしょうか。商業ベースにのって子供たちへ届く影響力がある絵が、熊本のような地方だと全部アニメになってしまうのですね。
 
 いい、わるいは関係なく、この20年はずっとそうだという事実です。
 
 子供へのアート環境として、壮大な実験をしているのでしょう。20年後どうなるのでしょうか。
 
 別にデュシャン以降のアートなんて知らなくても、アンパンマンやプリキュアがあればいいという気もします。
 
 アートがもう死んだんなら、そりゃアートの勝手だろ ということです。
 
 日本の場合はまだ始まってもいない、という気がしないでもないですが。
 
 さて、当時の小学生から外せない要素、それはノストラダムスの大予言!からの→ムー
ではないでしょうか。
 
 終末思想と相まって、最高にオカルトムードが高まっていた90年代初頭。オウム真理教が広告を出していたのもムーでした。
 
 今でも現存!刊行中です。00年代に入り、ノストラ景気(勝手に命名)がなくなったあ
とは様々な終末思想を繰り出すことに必死そうですね。世界が終わらないという事実の方が、実際には恐怖なんですけどね。子供には。
 
 どうしてオカルトは一部の小学生にはどうしても必要なのでしょうか。世界の不思議は心のゆとりのようなものです。全てが説明可能な世界で、子供は精神的に健康ではいられないのではないでしょうか。大人にとってはなおさらです。
 
 科学的、歴史的に説明できないことは排斥する世界に、魅力を感じません。息苦しい。その息苦しさの間隙をついてカルトが生まれます。
 
 オウム真理教にすくいとられなかったのは幸運にも、自分の邪な部分をどうしようもないと客観的に見つめていたからでしょうね。これは自分そのものだと。自分のそういう部分を認めることは、他人、もしくは世界のそういう部分を認めることです。
 
 認めたうえでどうするのかな?
 
 中学生になると、もっと様々なものに影響され始めます。
 
 一番はゲームかな、セガ派でした。マークⅢ。まだ動きます。
 
 サリュ

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2013年5月27日 (月)

自分が影響を受けたことの、ルーツを思い出してみる。

 五美人図 朱雀のコンテキストを書いてみて、美術的に自分が影響を受けたことを書いておこうと思いました。

 これだけブログ書いてきて、影響を受けたことを掘り下げて書いたことがないのに自分でも驚きました。
 
 子供の時になにを好んでいたか、そこから自己分析を始めると次作につながる発見があるかもしれません。
 
 小学生の時に、親に連れられて行ったモーリス・ユトリロ展が原点だろうと思われます。おそらく「ラパン アジル」の絵だったと覚えていますが、絵から目が離せなくなりました。
 
 なぜかは当時分かりませんでしたし、今も当時の気持ちは分かりません。とにかく脳裏に焼きついた。
 
 ユトリロの解説で覚えていることは、アル中で絵は独学、というポイントでしょうか。
 
 何年か前に福岡県立美術館にユトリロがきたときに観に行きました。無条件で好きでしたね、やはり。パリなんですけど、絵に湿度があって、自分のパステル画に湿度があると指摘されたときには分からなかったのですが、今ならDNAにユトリロがマインドセットされているからと分かります。
 
 次に覚えているのは岸田劉生の「道路と土手と塀」です。これも熊本県立美術館でした。またもや風景画。麗子像も覚えていますが、とにかくこの坂道の絵に夢中になった。
 
 今でも理由は分かりませんがこの2作品の記憶がDNAに刻み込まれているのは間違いありません。
 
 久しぶりに思い出しましたが、ふとしたときの様々な判断基準にこれらの絵がなっていることに、改めて気付きました。子供のころの記憶は恐ろしいです。なんとなく今の自分の絵にも地続きで繋がっていて、何が影響するか分かったもんじゃありませんね~。
 
 本日は小学生時代を思い出しています。
 
 いつも、手元に置いていた画集がありました。
 
 鳥山石燕の「図画百鬼夜行」です。
 
 ことあるごとに眺めていました。祖父の家にあった画集を持ち出していましたね。ボロボロになったな。
 
 ここまで書いてきて、随分小学生ぽくないと思いますね。
 
 ずっとバスケ部で1日の大半は学校にいる、土日も練習という日課でほとんどテレビを見る習慣がなく、アニメ、特撮などのポップカルチャーに全く親しまない生活でした。
 
 たまに触れるそういうカルチャーが新鮮だったのでしょう。
 
 たまの展覧会も影響受けますが、普段は図書室にいるのが好きな文学少年だったので、本の表紙絵からの影響も強いです。
 
 そして、今の絵柄に激甚な影響を与えたと思しき人をたった今、理解しました!!!
 
 江戸川乱歩の少年探偵団シリーズの表紙絵を描いた柳瀬茂 !!!
 
 そうだったんか…
 
 そういうことだったんか…
 
 ホラーや怪奇好きは江戸川乱歩のせいか。
 
 今日はリアルに発見があるな…
 
 また次回に。
 
 サリュ

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2013年5月26日 (日)

五美人図 朱雀(ごびじんず すじゃく)解説。

 今回、2年かかって以前からの作風を脱構築して描いた「五美人図 朱雀」の解説というか忘備録です。

 作品の画像は6月22日以降に公開予定です。
 
 自分用にこの絵のコンテキストをここに書いておきます。
 
 そもそもこの絵を描こうと決めたのは、福島第一原発の事故でした。言うまでもなく、未だに人が入れないレベルの放射能を放出している場所があります。
 
 誰も正確には、この事故が現在から将来において日本や世界にもたらす影響を、予測できない。
 
 何が起こっているのか、進行しているのか。
 
 メディアを見回すと、このネタはもう古いとばかりに新しい話題でもちきりです。
 
 過去の特定の歴史を殊更採り上げてみる政治家とか。
 
 そうなれば美術家に出来ることは、作品としてこのことを普遍性をもったものにして世に問うことだけです。
 
 普遍性を考えたときに、なぜ日本はこんなどつぼにはまってしまったのかを自分なりに定義しなければいけない。
 
 思い浮かんだのは、葛飾北斎の五美人図でした。江戸後期、身分が違う女性五人を同じ場所に絵として描いたものです。一生のうちに決して交錯することがない女性たち…発想が凄いとずっと思っていたのですが、このテキストを現代に当てはめることはできません。身分が違う、という階級社会ではないから基本的には会いたい人には会いに行ける社会です。
 
 北斎は問題意識として描いたのではなく、事実を描いたに過ぎないのでしょうが、当時の階級社会の本質を美を通して見事に表現しています。
 
 実物も福岡で見ました。
 
 現代で、実際に会えない人とは誰か。
 
 普遍性と北斎の絵の関連が頭の中で合致したのは、この瞬間でした。
 
 時代が違うと会えない。人間は時間だけはどうにもならない。
 
 70年代、学生闘争。
 80年代、バブル。
 90年代、コギャル。
 00年代、ミニマル。
 10年代、派遣、原発を思わせるクリーンスーツ。
 
 時代の表層を彩る五人の女性を描けば、日本の近現代を美術として描ける。
 
 しかも、それぞれの時代の人はまだ生きていています。
 
 現在進行形の普遍性を表現できるのではないか。
 
 さらに、アジアの中の日本という象徴を描きたいと思いました。そのとき発想したのは四神です。もともと中国から日本に伝わったものですが、朱雀、玄武、青龍、白虎は方角を司る神獣です。昔から、今でも、未来でも信仰を集めるアジアの神です。
 
 この神々はアジアの中の日本社会を視覚的に担ってもらう為に、作品の中に構成しました。絵の中の朱雀には五美人を守護して欲しいので、尾に包まれるように描いてあります。また、朱雀の普遍性を視覚的に感じてもらう為に、かなり平面的(立体感を抑えた)な表現になっています。
 
 この絵の支持体はマーメイド紙で、主にハードパステルで描かれています。金の部分は鉄粉にメディウムという一部ミクトメディアという初の技術的な試みをしています。
 
 朱雀の部分はパステルで描き終わったあと、水性ニスとリンシードオイルでコーティングしてあります。神の部分だけ絵的にも耐久度と光沢が増しています。
 
 人物の部分はマット仕上げなのでどの角度からも見えますが、朱雀の部分は光の加減で一部視認できないのです。朱雀の後光の表現です。
 
 構図に関しては引用は北斎の絵が縦に長い、という位に留めて、今まで培ってきた感覚全開で構成しています。現実的にどうかというより、櫻井栄一的にはこれが正しいといういつものやりかたです。
 
 北斎の鳳凰図の逆さ冨士はオマージュとしてあえて再現していますが。
 
 四神図ですので、当然これからあと三図を描きます。福島第一原発という荒ぶる神を鎮魂するという意味あいもあります。
 
 コンテキストはこのような感じですが、結果的には見た瞬間、何だ?!となる絵になっていればいいなと思います。
 
 どんなにコンテキストがあっても、絵に魅力がなかったら無意味です。
 
 そこのところの勝負にまでなっていればいいなと祈りつつ。
 
 サリュ
This time, it is  recording or rather commentary drawn by deconstructing style from the previously suffering two years of "five beautiful view Suzaku".
Image of the work is coming in after June 22.
I'll write here the context of this picture for yourself.
The first place was decided to draw this picture, it was an accident at the Fukushima Daiichi nuclear power plant. Needless to say, there is a place that emit levels of radioactivity a person is not still put.
To be precise, this accident can not be predicted, the impacts of the world and Japan in the future from the present everyone.
What's going on, whether you are in progress.
Looking around the media, it is buzzing with a new topic in this story is just the old anymore.
Such as politicians try to deliberately taken up the history of a particular past.
Can do artist If that happens, the only thing you ask the world to what you had a universality that as this work.
We have to define in my own when I think of universality, why Japan is whether got addicted to this Dotsubo.
You came to think, it was five beautiful view of Katsushika Hokusai. It is a thing of the late Edo period, as the picture painted in the same location five women who have different status. We thought all the way women ... there is no idea that you never crossing out of life is great, but you will not be able to fit in this modern text. It is a society that go to see the people you want to meet in basically not a class society status that, different.
Hokusai instead of painted as awareness, you will not only to depicting the facts, but to express stunning beauty through the essence of the class society of the time.
I have seen the real thing in Fukuoka.
In modern times, Who are the people who do not actually meet.
Relevant picture of Hokusai and universality's matches in the head, it was this moment.
I do not meet age and different. Human is not an answer to the only time.
70s, students struggle.
80s, bubble.
90s, Young Gals.
00's, minimal.
10's, dispatch, clean suit reminiscent of the nuclear power plant.
If you draw a woman of five people who decorate the surface of the times, the draw as modern and contemporary art of Japan.
Moreover, people of each era are still alive.
Is not it as it can express the universality of the ongoing.
I Furthermore, I would want to draw a symbol of Japan in Asia. Was the idea that time is four God. It is the one that was introduced to Japan from China originally, Suzaku, Xuanwu, blue dragon, white tiger is God beast that controls direction. For a long time, even now, is the God of Asia to collect faith in the future.
In order to get to play a visual Japanese society in Asia, the gods were configured in the work. Because I want you to protect the five beauty to Suzaku in the picture, It's drawn to be wrapped in the tail. In addition, in order to get a visual feel the universality of Suzaku, and it is the expression (held a three-dimensional impression) plane fairly.
Support of this picture at Mermaid paper, we are drawn in pastel mainly hard. Gold pieces are an attempt technical first part of Miku SmartMedia of medium to iron powder.
After you have finished drawing in pastel, and has been coated with linseed oil and water-based varnish is part of Suzaku. Gloss and durability are more than ever pictorial only part of God.
It looks from any angle part of the person is a matte finish, part of Suzaku can not I part visible in a trick of the light. It is a representation of the halo of Suzaku.
Bear in place of Hokusai painting that, long vertically quote, is configured with full throttle sense that we have cultivated up to now with respect to composition. This is the usual way rather than whether realistically, this is correct in Sakurai Eiichi basis.
Fuji upside down phoenix figure Hokusai is to reproduce dare as a tribute.
Because it is four divine figure, draw a diagram after three now of course. There are also implications of requiem to the Violent God of the Fukushima Daiichi nuclear power plant.
Context is like this, but the moment I saw as a result, it's what? ! And I hope that as long as the picture is that it is.
Even if there is context however, it is meaningless if there is no appeal to the picture.
While prayer and I hope if it is to the game of place there.
Salut

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2013年5月20日 (月)

絵画制作に集中しています。

 現在、絵画制作に仕事の重点を置いています。

 アートイベント、その他企画等をとりあえず停止中です。
 
 今、このタイミングで描いておかなければならない作品です。
 
 新しい技術を導入中で、予想しないトラブルにみまわれて四苦八苦しております。
 
 最近は生活がシンプルです。
 
 そんな訳で、絵画制作がひと段落するまでは、あまり企画とかの動きはないと思います。
 
 突発的に色々飛び込んでくるので、分かりませんけれども。
 
 サリュ

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2013年5月14日 (火)

チキンレース。

 アート系30歳過ぎ人間は分かっていると思いますが、アートの世界は壮大なチキンレースをやっているわけです。

 プレイヤーに限っての話です。
 
 建築の世界とかもそうだと思いますが、よく「40歳からがスタートライン」とういう話を聞きます。
 
 年齢に関係なく、結局やめたらそこでお終いなのはアートに限った話ではありませんが。
 
 色々みてきてアート関係ほど、学ぶ学生の数、規模と現実的な回収システムがミスマッチな世界はあまり他にないです。
 
 地方の三流美大(九州産業大学 芸学卒)とかに通っている美大生、とかに向けて書いておこうと思います。5月だし、もうチキンレースは始まっているし。
 
 いつも現実的なことばかり書くので、夢も希望もないブログに仕上がっていることを自覚していますが、書かずにはおれないわけです。
 
 もし九産大の芸学とかに通っている学生がいたら、即、現実を直視して欲しいのです。今はどうか知りませんが、1998年当時の就職課に行ったら「真珠を磨く?」といわれたのは忘れられません。
 
 とにかく、半端なくつぶしがきかない学部、芸術学部。ほとんどの同級生は卒業後に専門学校に入りなおして就職しました。福祉とか、美容とか、デザインとか。
 
 今現在の自分も、実に様々な仕事をしています。アートでは食えない、というか、もう、アートと「食う」が結びつかない。
 
 手段じゃないから、アートが。
 
 「食う」のが目的だったら、アートじゃなくていいわけでしょう。
 
 美大生で一生涯アートに関わりたい人は、目的と手段を間違ってはいけません。
 
 アートを手段にした時点で、ほとんど絶望的です。無理ゲーです。もっと楽な手段を選んで欲しい。
 
 目的にして下さい。
 
 自分が目指すアートがあるなら、「食う」手段は全く別のことで構いません。
 
 だから、在学中にはアートに関する勉強とは別に、就職するなりの収入を得る現実的な問題へ、他の学部の学生以上に気を配って下さい。
 
 地方の芸学を選んだ時点で、現実社会への梯子が外されています。
 
 多分、在学中には教授とかはそんなことを言ってくれない。
 
 偽りの希望を刷り込まれるかもしれない。
 
 針の穴みたいなチャンスをものにした人の成功例を、延々たれ流しているでしょう。
 
 それは、ツテ、カネ、コネ、さらに才能すらない美術家の卵には毒以外の何でもありません。
 
 まぁ、聞くな。
 
 大体、地方大学の芸学に入っている時点で、おおよそ才能の有無は判断がつきます。
 
 え~と、夢も希望もないことを書こうとしているんではなくて、そんな状況でどうサバイブしていくかを書こうとしています。むしろ、その辺のうそ臭いポジティブシンキングなドーピング文より希望があるかも知れません。
 
 そのぶん、絶望も深くなるかもしれませんが。
 
 
 言おうとしているのは簡単なことで、アートで「食おう」とか思わないほうがいいということ。
 
 もちろん目指すのはいいです。むしろ目指して欲しい、自分も目指している。
 
 でもね、普通無理なんだ、それは。
 
 だから、作品を制作できる環境とか、活動を続ける環境を、整えるべきです。
 
 才能ない美術家にとって、アートの世界で何かを目指すというのは一生を賭けた長期戦なのです。決して短期戦ではない。何歳までにものにならなかったら…というよくある線引きは関係ない。そういうことを言う奴とは距離を置くべきです。アートなんて、基本、一生モノにならないのが普通なんですから。
 
 希望の話をしているのか、絶望の話をしているのか?
 
 違います。
 
 覚悟の話をしている。
 
 覚悟した先に何が待ち受けていようと、美術家ならしゃーない、そういう話です。
 チキンレースになぞらえましたが、まさに壮大なチキンレースをやっている感覚です。誰が先に諦めるのか。でも本当はちがう。
 一人でも多くの美術家の卵達に諦めて欲しくないから書きますが、一生うだつが上がらなかったとして、それがどうだと言うのですか。
 そんなつまんないことの為にアートを志すのですかね、違うでしょ、自分なりの表現を成す為でしょう。
 そこを見失わなかったら大丈夫。
 表現を追及するための条件を整えましょう。先は長いです。
 現世利益は、あればラッキーくらいの気持ちでいますよ。
 そうは言っても、果てしなく厳しい道であることは間違いありません。
 サリュ
 
 

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2013年5月 7日 (火)

4部作の1作目が完成しそうです。2年かかりましたが、残り3作は1年以内に制作したいです。

 絵画の制作は、路線というか方向性を打ち出す、コンテキストを明確にするのが重要で、それをどう描くかという技術は個々人の美術家で違ってきます。

 技法が重要なのではなく、コンテキストとのマッチングが大事です。
 
 
 現代アートは、現代のなにかを表現するものだろうと思うのです。今の自分にとって重要なことを作品として表現する。
 
 その、制作時間の分だけ、作品制作タイプの美術家は「現代」からは遅れてしまいます。なので、現代そものを表現することは制作タイプには最初から無理なのです。
 
 多くの美術家は「現代性」という、少し広範な考え方にシフトします。
 
 現代性を獲得する為には、日本のアートシーン以外の現実の現状を、把握する必要もあります。日本の近代史です。
 
 また、身体表現、パフォーマンスというのは、この「現代」という今に肉迫する表現形態です。多くの前衛芸術家がパフォーマンスを採り入れてきたのはこの、作品制作時間というタイムラグを無効にしようとした試みではなかったかと、最近思い始めました。
 
 現実へのアートの介入がハプニングやパフォーマンスでしょう。
 
 しかし、ここにもジレンマがあって、現実に肉迫できるタイムスパンが非常に短いことです。最近は映像技術が上がって記録が鮮明に残りますが、それでも場の空気はなかなか感じ辛いものです。生ものに近い。
 
 そういうものは記録としては重要でも、単体としてみるとドキュメントでありアート作品とは言いがたいですよね。
 
 アートプロジェクトというのは、その間隙を埋めるための複合的な試みでしょう。そのひとつ前にインスタレーションがありますが割愛します。
 
 全国の地域で行われるアートイベントを観察していると、最近面白い動向が窺えます。アーティストや従来の意味でのアートが必要とされなくなってきているのです。
 
 何だか分からない、どう分類していいか分からないものをとりあえずコンテンポラリーアート枠に収めておこうという、状況が生まれ始めています。
 
 
 AAFの中をちょっと見ただけでも、こんな感じです。とがびは、アーティストはいらない例として。
 
 現代アートの現代性を推し進めると、アートが希薄になるのは当然の帰結でしょう。
 
 作品制作タイプの美術家は、いつまでたっても少し時代遅れになるのは仕方ありませんが、代わりに普遍性を考えるべきでしょう。
 
 この、普遍性の身の置き所がコンテキストに他なりません。私にとっては。
 
 絵描きはいつまでたっても、多分人類が滅ぶまで、時代遅れの美術として存在し続けると思います。人類最古の絵は3万2千年前のもの。
 
 絵が始まったときから、様々な意味が付託されてきて現在に至ります。絵画は現代アートの文脈の中では終わったアートピースだと思いますが、世界中で制作されています。思想的には終わっていますが、現実的には終わらない。だから、制作を続ける為には沢山の意味をまとう必要があるのです。絵描きという美術家には。そこに自覚的でない絵描きを、私の中では「天然な作家」と分類しています。天然な作家の条件は只一つ。天才であること。
 
 自分の作品への意味の付託をおろそかにすることはできません。
 
 絵を残してきた先人への冒涜に等しいからです。
 
 サリュ
 
 

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2013年5月 5日 (日)

熊本県、宇城市松合のジューシーオレンジを収穫するお手伝い。

 この間、松合にまちづくりの視点で行きましたが、今回はジューシーオレンジの収穫の手伝いに行ってきました。

 去年末はデコポンの収穫の手伝いでしたが、今回はジューシーオレンジです。
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 柑橘の畑なので、段々畑です。木の根元から2mくらいの段差があるので、段差側の収穫は割りと大変。
 
ジューシーオレンジは直径が15cmくらいで、色はご覧の写真みたいに黄色です。
 
 普段、体を全く動かさない生活で、久しぶりの肉体労働です。なので、労働としては戦力外みたいな感じなんですが、出来る範囲でお手伝いしてきました。
 
 収穫したオレンジを箱に詰めて、トラックの荷台の載せるだけなんですが、これは重労働ですよ、かなり。若ければいいですが、70~80代の方々も現役が多い地区です。正直驚きです。
 
 お昼はお手製のおにぎりや、から揚げ、サラダたまねぎなどを頂きました。久しぶりの自然の中、聞こえてくるのは本物の鳥のさえずり。
 
 色んなところで、なんとはなしに鳥のさえずりの音源を聞いている、そんな生活や不自然さにふと気付きます。他にも、流水の音を音源で聞いているときなどありますよね…
 
 農家の方には当たり前のことですが、PCの前に一日中いる仕事の自分にとっては、これ以上のリフレッシュはないのです。
 
 そして、色んなお話しをする中で、松合という場所は、もの凄い潜在能力がある場所なんだと分かってきました。
 
 点として個々の潜在能力は突出していますが、やはりと言いますか、点と点を繋ぐキュレーションの部分が全くないのですね。
 
 前回松合を書いたときにも思いましたが、さらに松合小学校の事などを考えると、ここ5年が勝負でしょうね。白壁などのハード整備に比べると、5年でも遅すぎる位のスピードで地区の機能が失われていってるのを感じます。
 
 6次産業の面でも、大きい可能性を感じました。ただ、通常のイノベーションの考え方では難しいでしょうね、企業コンサルみたいなものを入れても現状は打破できないでしょう。全国で成功している例を持ってくる、組み合わせる、のではね。多分それなら行政や地域の方々も既に行っているでしょう。
 
 今回はこの辺の話は置いておいて、やはり、都市部で仕事してる人間は機会を捉えて農業をやるべきというのは天草在郷美術館の加藤笑平さんの言うとおりだと思います。米を作るべき、とまでは断言できませんが、食べ物をつくることの凄さを肌身で感じるのは必要な儀式です。
 
 30代になったら、農業に従事したことがない国民に1年に2日くらい義務化してもいいんじゃないかと思います。
 
 子供にばかり、教育という名目で色々体験させても駄目で、ある程度社会経験がある大人が真剣にやれば、日本が抱える問題のある側面を解決できるのではとまで期待します。
 
 そんなこ難しいことを考えなくても、たまには土を踏まんとな~と思ったのでした。
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 おみやげにもらったジューシーオレンジ。ありがたいです。
 サリュ

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2013年5月 2日 (木)

企画書の書き方②

 前回に引き続きアートイベントの企画書の書き方について、自己流です。

 書いていることがとっ散らかっているのは理由があります。
 
 実際、新しい企画を立ち上げるときの頭の中が、散らかり三昧だからです。
 
 理路整然となんてしているわけありません。新しい事を興すときに、理屈で割り切れるようなことをしていたのでは、アートとしての耐久度に問題があるんじゃなかろうかと、全体を点検したほうがよさそうです。
 
 企画の一部に混沌を混ぜ込んでおきます。それはまた後から。
 
 アートは社会の中で機能するのか、アートとは何ぞやという問いには、参加アーティストの数だけ形があります。ここではその問いへの答えはとりあげません。
 
 アーティストであれば一生問い続けるはずですから。
 アートイベント、アートスイッチvol.1は、まずアーティストとお客様が触れ合うことで、その先の作品に興味を持ってもらうという通常のホワイトキューブで作品展示するのとは、逆の考え方をしました。
 
 ショッピングモールに、仮に世界で一流に入る作品を展示してもたいした興味は持ってもらえないだろうと思います。そういう、アートに触れる場所ではない、そういう風に設計されていないからです。
 
 それが熊本ローカルなアーティストならなおさらでしょう。それでも、普通のグループ展にはしたくないし、「場の圧力」でできない。場は巨大な吹き抜けで、通路の一部です。当たり前にレイアウトしたら、立ち止まってもくれない事が予想されます。
 
 ここでの材料は、
 ①作品の展示と、販売をしたい。
 ②ライブペイントとワークショップをしなければ、興味を持ってもらえない。
 
 ということです。
 次に考えるのは、ショッピングモールへの具体的なメリットの打ち出しです。これをやるとどうメリットになるのか。
 まず、「場」から答えを導き出そうとしました。吹き抜けの通路で、普段どのようなイベントが開催されているのかを調べます。
 赤ちゃんはいはい競争
 ボールプール
 TUTAYAのライブ
 季節の特設販売
 ヒーローとかゆるキャラの握手会
 地域の特産品
 ようするに、モールでよく目にするお客様に楽しんで頂く定番イベントの、ルーチンです。
 何が読み取れるか?
 主催側の視点だと、お客様への楽しみの提供です。逆視点だと、「概視感」。いつものイベントか~というマンネリは、安心感も与えます。
 日常空間に必要なのは、安心感と度を越さない楽しみに尽きます。
 この場所でアートを展開するときに、必要になる感覚が出ましたね。
 度を越さない。アートなのに度を越さないという、矛盾したマインドセットが必要になります。
 それをどこで演出するのか。ワークショップに他なりません。モールへの具体的な提案は、無料のワークショップをイベントに組み込むという案です。
 それとは別に、アートイベントという新しい価値観を創造しますよ、というイメージ面へのアピールです。
 なんだか、普通のことを延々書いています。
 普通のことを、丹念に確認していく先にしか、社会の中でアートがどう機能するか知る術を知りません。
 アートとは何の関わりもない場所へアーティストが出て行こうとするなら、現実を冷静に把握しなければうまくいきません。
 ニッチではなく、自己満足にもならないアートイベントをしたいのですから。
 次には、具体的に何をするのかを考えなければいけません。
 実際の当時の企画書を見ると、「アートが商業施設でどう機能するか」「熊本のアーティストの現状」「熊本のアートシーン過去現在未来」「商業地区と貸しギャラリーの変遷」「アートがどう社会化してきているか、ヤン・フートのドクメンタ以降」などの基礎知識を当時なりにレポートしたものがA4にぎっしり、30Pを越えてまとめられています。
 アートイベントの背骨というのは、こういう認識がきちんとあるかないかだと思うわけです。
 一度この道を通ると、他のアートイベントを見ても背骨があるかないかはすぐ分かるようになります。
 背骨とか別になくてもいいんですけどね、面白ければ。
 でも、まぁ、背骨がないアートイベントのつまらんことといったらない、というパターンが多いので、企画者はよく考えた方がいいですよ。
 次回は具体的な企画案を考えるです。
 サリュ

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