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2013年8月23日 (金)

ちょっと遅くなりましたが、劇団「市民舞台」公演NAORAI観劇の感想です。

 

NAORAI は、熊本の神風連の変を題材に採った演劇でした。

 人はどういう一事に命を張るのか、常日頃はあんまり考えないと思います。
 
 現代社会の幸せとは、基本的には一事を成す!ことには主眼が置かれていない。
 
 なにげない日常の幸せが続いていくこと。特に震災後はそういう風潮があるのかなと思います。日常は自然災害で一瞬に残酷な姿に変わることを再確認しました。原発では地獄の釜の蓋が開いているのに(今も)極一部の人しか、まともにそれを伝えようとしていませんよね。
 
 終わりが来ない、安寧の日常の素晴しさの中で、一事を成すことの重みはどれだけあるのでしょうか。
 
 NAORAIの中での明治初期日本は、安寧には程遠い日常でした。諸外国からの圧力と国内の騒乱。
 
 新しい軍事統制が進む中、古い軍事統制の大本である「侍」とは何かが炙り出されていきます。
 
 「侍」とは、思うに日本が徳川幕府のもと、2世紀に渡り丹精こめて磨き上げた日本という国体の鋳型ではないでしょうか。
 
 純度が高い、日本の精神を体現した姿「侍」。さらにその精神性をものとして表象させたのが日本刀です。侍がこれを奪われるのは、マインドセットされた日本という国体を奪われるのに等しい。
 
 国を奪われる事に対する拒否反応、佐賀、萩の変も同様です。特に薩摩の侍は愛国心が強かった為、西南の役にまで発展します。
 
 廃刀令。
 
 これを士族のアイデンティティーの否定と言うのは一面しか捉えていません。日本が侍という制度を担保し続けたからこそ、明治維新が起きました。ミラクルピースと言われた江戸時代に侍を何故担保し続けたのか?
 
 理由は幕末の動乱を駆け抜けた志士たちを見れば、そういうことです、つまり。
 
 有事の際に、一事に命を張れる人間を、鋳型をつくってはめ込み、担保し続けた。
 
 これは凄い、本当に凄い究極の安全装置だと思います。だって、200年以上無駄飯喰らいだった訳です、本質的に。
 
 もちろん藩の政策経済的な様々を担う、官僚的な仕事がほとんどだったでしょう。それでも、帯刀という身分は人を殺傷する権限を与えられていたという事実において侍とは何かを考えざるをえません。
 
 NAORAIは幕末から廃刀令、神風連の変後まで描きます。
 
 非常に端的に書きますが、描かれたのは侍が国(刀)を奪われて行動を起こし、妻たちが奪われたのは夫だったり、幸せ(終わらない日常)です。
 
 終わらない日常を保つための制度が大きく変わっていく中で、役目が終わりかけている人々「侍」が自らの役目を自覚して行動を起こします。
 
 観た直後に思ったのは、現代日本に、有事の際に一事に命を張って時代を回天させる人々が担保されているのかということ。
 
 恐らく目に見えてはいないでしょう。
 
 先の戦争で負けてアメリカの占領政策により、「侍」の遺伝子の発露を極端に削がれてしまった。アメリカも怖かったからです。「侍」の遺伝子が。
 
 NAORAIには、そういう諸々のことが含まれています。
 
 今こそ観るべき演劇でした。
 
 日本人から「侍」の遺伝子が完全に失われたとは思いません。消えたかに見えて、本当の有事の際には際立った人々が現れるに違いありません。
 
 そういった諸々を思う演劇でした。
 
 ありがとうございました。
 
 サリュ
 
 

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