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2013年11月12日 (火)

技術と意志、からだとこころ、ということになるのかな。

 自分にとっての美的な技術というのは、パステルを紙に定着させることです。あとは学校で学んだ絵画の古典技術(デッサンや遠近法、光学スペクトル、等)になると思われます。

 繰り返し、膨大な反復の中で体に刻み込まれていく技術です。
 
 芸術に関わる、あらゆる分野において、超高度な技術で展開する美的な行為は、その技術に対する知識の高さとともに同じ方向性の技術を持っている方が、深くそこに表現される美を理解できるでしょう。
 
 そのような表現は、高度であるがゆえに一般性をも獲得してしまいます。
 
 パリのルーブル美術館で、最高度の技術による古典絵画を山ほど見たときには、本当に疲れてぐったりしましたが、衝撃を受けたという類の経験はしませんでした。職人技だからです。アーティストではなく、マエストロの仕事で、感銘はありましたが感動はそれ程ありませんでした。
 
 この絵画作品群からまとめられた西欧絵画技術を、美術学校で学んだのだな、という確認作業のように思えたからです。
 
 少し前に福岡で観たダヴィンチ展において、ボッティチェルリだったかな?ラファエロ?の工房が、本人の死後も同じような絵柄の新作を作り続けている様が展示されていて、技術と絵柄の継承という興味深いが、新鮮味はあまりないお馴染みの感銘を受けたのも思い出しました。はっきり覚えていない位ですが。
 
 マエストロによって絵柄の個性はあるものの、ここでは最高度の「技術」を主に鑑賞しています。
 
 ところが。
 
 オルセー美術館に行ったときには、数々の作品に打ちのめされる経験をしました。
 
 印象派以後の作品は、最高度の技術がある絵画などではありません。
 
 むしろ、絵画技術を媒介として、己の存在を画布に刻みつけようとした生々しい傷の痕跡に見えたからです。ユトリロ、ヴラマンク、ロートレック、極めつけはゴッホと。
 
 彼らの絵を、技術的に分析したところで、作品から受ける衝撃の本質には到底たどり着けません。
 
 かと言って現代アートのように、絵画技術を捨て去っているわけでもなく、鑑賞する側としては技術と自分を表現しようとする「意志」の具合がちょうどいいと感じてしまいます。
 
 これ以後のアートは、絵画の絵画たるあらゆる成分を分解、解体していくという簡単にいうと絵画を科学分析して細胞切り取って培養し、顕微鏡で見るような行為を続けて、DNAのように全部解析完了、となります。
 
 DNAを解析して生命を完全に解析できたか?となると、そのようなことはないですね。
 
 優れた科学者が、素晴しい科学の基礎を築くように、現代でも優れたアーティストは独自のテキストで一分野を築くのですが、最近なんとなく違和感が自分の中で大きくなっています。
 
 結局、何を目指しているんだろうと。
 
 それすらも不明のまま、とあるジャンルのコンテキストの先端を目指して競争しているだけなのではないかと。
 
 もちろん、答えはありません。
 
 ただ違和感があるので、書いてみました。
 
 技術と意志のちょうどいい具合の何か。
 
 そのことを最近考えています。
 
 サリュ
 

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