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2015年2月

2015年2月23日 (月)

熊本、金峰山周辺の里山の活用について。熊本市は夏目漱石を軸に動くそうですが、それは柔道と空手のマス大山の理論に準じたい。

 

 今日、金峰山の周辺地域(里山)をどうすべきかというシンポジウムに行ってきました。

 

 新熊本市長の意見とか、佇まいを見に行ったというのが正直な動機です。

 

 シンポジウム自体の内容は、熊本ローカルでは目新しいかもしれませんが、真剣に考えてリサーチしていれば全部入手できる情報でした。

 

 だから毎回嫌なんだよな、基調講演的なアレが。時間の無駄だろと思いながら聞いていました。

 

 結局、地元がどうするかしかないわけで、それを促すことなんでしょうが正直今後この手シンポジウムのを紹介されてももう行かなくていいなと思いました。

 

 今回は、金峰山の草枕関連で、市が1400万かけて周辺を整備するのに畳みかける感じの、シンポジウムなわけでしょ。今日の熊日新聞によれば。

 

 今日のベッププロジェクトの山出さんが言ってたのとは別基軸なわけです。

 

 結局夏目漱石という、すでに価値が確定した存在にしか、お金をかけられないという貧弱な発想が衰退の原因だな~。

 

 それはベッププロジェクトの国際芸術祭の病根も絡んでくると思いますが、それは本題ではないので割愛。

 

 金峰山周辺で、基本コンテンツになりうるのは民族信仰と里山関連なんです。それを入り口に、日本独自のアミニズムから神仏混淆に至るまで、農業をからめながら面白く展開するといいのにそういう動きはありませんね。

 

 連動して山鹿の不動岩を翌日は回ってもらうとかね、熊本城に来ている観光客にこの辺のフットパスを教えるだけで、周辺のホスピタリティーは多分あるはずだから、まとめて紹介。

 

 夏目漱石を知らないと、感じ入れないホスピタリティーはそうとうレベルが高いので、もっと全世界に「一瞬で」通用するコンテンツを考えて欲しいな。

 

 それは今日のシンポジウムでもう山のように出ていた。

 

 サリュ

 

 

 

 

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2015年2月18日 (水)

地域アートについて、個人的な考えです。

 世間では、地域アートについて、やっと色々話題になってきているようですね。

 

 アートスイッチでも、熊本の様々なシーンでアートの社会化とはどういうことかをイベントとして活動してきました。

 

 その中で思うのは、地域の中には様々な種が眠っていて、とてもはっきり見えます。これに手をかけてあげたり、少しだけお金をかけたりすれば周辺の人々を巻き込んだ大きい「何か」になるのかなぁという種です。

 

 それは、その場所にずっと固定して暮らしてきた方々には、当たり前にあることが多いから、それが「種」だと気付いていないことが多々ありますね。

 

 そういう「種」を、発見するのが地域におけるアーティストの役割の一部だと思います。

 

 ただ、アーティストには、地域活性化という名目で利用されるんじゃないかと懐疑的に思うような地域の反応もあったりします。

 

 その逆で、なんだかわけがわからないという理由で、地域に敬遠されるイベントだったり。

 

 あと、一番多いのが、少し集客や反響が大きいと「自分たちだけでやれる!」となった地域から、追い出されるような感じになりがちなことです。

 

 この例は、実に全国様々な例を聞きました。福岡の田川の例とか、有名ですね。

 

 表面だけ見ると、アーティストがやっていることは簡単に見えますよね、やっぱり。

 

 地域住民だけで、自分たちだけで継続してできると思ってしまいますよ。

 

 似たような例で、ピカソの線描きのデッサンて、誰でも描けるように勘違いする人も多そうだし。カンディンスキーのコンポジションは、真似れば簡単。草間彌生はドットでしょ?という捉え方。

 

 地域アートの中で重要なことは、真似で何の意味があるのかなぁということかも知れませんね。

 

 これは、ある程度田舎じゃない、都市圏じゃない、地方都市に当てはまるのかな。

 

 熊本市という地域の中で、地域アートを成立させるのは、正直至難の業かもしれません。中途半端に生きている自治会、意味が分からない幾層にも重なった繁栄会や商圏のレイヤーをかいくぐり、町の区割りや顔役へのお目通りをこなした先に、表現の場がやっと立ち上がってくるんだな。

 

 徹底的に壊れた地区なら、まだ目がありそうな気もしますが、熊本は結構元気だからな。

 

 アートという角度が、地域に入ったときに何が起こるかを実際に目にしました。

 

 今日も、とっちらかったことを延々書いていますが、何でそうなるかというと渦中にいるからです。当事者だから、うまくまとめて書けません。

 

 地域の中に「種」はたくさんあるのに、それを伝えられないもどかしさはありますが、おいおい徐々に動いていきます。

 

 地域アート、結局はまだ始まったばかりだってことだと思いますけど。

 

 サリュ

 

 

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2015年2月17日 (火)

陰謀論。

 

 ネットを開くと、所謂陰謀論が花盛りです。

 

 10年前だったら、落合信彦の本を読むしかなかった地方民です。

 

 そんな中で、何が正しいのかなんてまるで分かりません。

 

 どういうことかというと、ゴッホの絵が素晴らしいというのは実際見ないとやはり分からない。画集やネットで見ていては、一歩も本物のゴッホに近づけないのです。ゴッホに限ったことではないが。

 

 そういう意味で、ロックフェラーがどうとか、金融支配がどうとか、規模が壮大過ぎて意味わかんないとか思います。

 

 でも、財布の中身を思うと、ちょっとだけ思い至る節もある。この紙ペラがなんで自分の人生の大部分を支配しているのか。

 

 江戸の中期までは「米」が、価値の中心だったわけです。

 

 大東亜戦争中には「軍票」です。

 

 終戦と同時にまさに紙ペラです。

 

 軍票でも紙幣でも、有価証券でも、国債でもいいですが、こういった現代の錬金術を生み出している大本ってどこなの?

 

 そういうことと、アートの手法が交差する何かって何なんだろうなと今考えています。

 

 変わる価値と、変わらない何か。

 

 ゴッホの絵は、キャンバスに油絵具を塗った物質にほかなりませんが、実際に見ると物凄いですからね。

 

 田中一村とか、甲斐庄楠音、高島野十郎、すいませんね、ただ好きな絵描きを並べただけかもですが、生き方が半端なないです。

 

 それ以上に作品が半端ない。

 

 陰謀論を書こうと思ったのに、好きな画家を紹介してしまった。

 

 そういうなりゆきです。

 

 サリュ

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2015年2月13日 (金)

来月は長崎に行く予定。もちろんアートは今回も関係ない(笑)

 最近、色々気になるわけです。

 

 特に、食べ物のこととか、水のこととか。

 

 些細なきっかけが重なり、熊本県玉名の玉名牧場さんのところへ、見学に行きました。

 

 自然に生えた牧草だけを食べている牛たちは、一見痩せて見えます。ところが、今普通に飼育されている牛は成長ホルモンを投与され、効率よく体を大きくしたものなのです。日本産の牛には使用禁止ですが、日本産の牛は「国産和牛」表示の肉のみです。

 

 他の霜降りには、外国の牛脂が注入されている可能性があります。

 

 豪州の牛や北米産の牛だそうで、成長ホルモンの残留量は600倍にもなる。

 

 戦後安い輸入肉をもりもり食って、牛乳をごくごく飲んだ結果、日本人の体が一回り大きくなりませんでしたか?ほんの1代しか代変わってないのに、こんなにも人間の体って昔に比べると大きくなるんですね。

 

 疑問に思いませんか?

 

 さらに、牛が病気にならないように抗生物質を打ちまくるので、完全に薬漬けの脂です。

 

 牛肉ひとつとってみても、簡単言えばこれだけ変な構造になっている。

 

 野菜、米にもこれぞれ添加物、農薬、品種改良で様々なものが大量生産、消費のサイクルに組み込まれている。

 

 何か変なんですよね。

 

 そんなこと望んだわけではないはずです。

 

 食品添加物にしろ何にしろ、この量なら安全ですと国が決めたものを何の吟味もなしに食べている状態が今の日本です。

 

 もっとシンプルな構造にならないのかな。

 

 食べ物だけの話ではなくて、そう考え始めている。こういうのは、うすうす思っていても改めて自分から情報を取りに行くと、空恐ろしい現実が待ち構えています。

 

 考え始めたのはいいことだし、これからもっと現実が見えてくるんだろうな。

 

 あ、長崎に行くのもこのようなことが気になり始めたので、それがらみで行きます。

 

 面白そうです。

 

 サリュ

 

 

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2015年2月11日 (水)

的を絞る。

 

 今年、モヒカンポシェットは、初めての国際アパレルEXPOに出展します。

 

 ここまで来た!という気持ちがあります。

 

 個人で経営している、熊本のパーソナルメゾンです。

 

 ミシン一台で、地道に続けてきました。

 

 自分はずっと、そのそばで色々企画をやってきました。これからもあまりかわらないペースでいくと思います。

 

 これから、どういう展開が待ち受けているのかは、予想できないです。

 

 もちろんある程度の見込みを立てて、活動していくのですが。

 

 予想通りには行かないです。

 

 結婚している人なら分かると思いますが、相方が予想通りに行動してくれて、1か月先まで平穏でいられることが予想できますか。

 

 身近なパートナーが予測不可能なのに、経済学なんてほとんど無意味ですよね。

 

 何でこんな無意味な学問ぽい商売のタネを、無意味に信じている人が多いんだろうな。

 

 もっともらしいからなんだろうな。数字とか出したり。

 

 サリュ

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2015年2月 2日 (月)

熊本市現代美術館の、鉛筆の力展とパープルーム大学2の演劇ワークショップを見てきました。

 まず、鉛筆の力展から。

 

 まず、真っ先に思ったのが、木下晋さんの絵で一番好きだなぁと思ったのが、実母を描かれた絵でした。

 

 理由は、描かれた対象と、作者の意識の距離が丁度いいこと。

 

 

 描かれた対象(実母)の中に、心理的に入り込めていない距離があり、それが対象を造形のモチーフとして描こうとしているのが気持ちよかったです。

 

 ごぜ(漢字変換難し)を描いた絵は、自分が描きたかった何かを「見つけた」感がありました。

 

 自分がしたい表現を対象に投影し過ぎてて、鑑賞者を寄せ付けないエゴイスティックさがあり、それもまた「絵」だと思いました。

 

 説明し過ぎる感があるのは、仕方ないと思います。そこまで描かなくては、他人にはわからないだろうというサービス精神かなとも。

 

 実母を描いた絵は、近親者とのディスコミュニケーションが浮き彫りになっていて、却って絶望感が増していて素晴らしかったと思います。

 

 ごぜの絵は、ファンタジーなのでファンタジー好きにはいいのかなぁと思いました。10Bの鉛筆のエピソードもファンタジーの福神漬けなんだなぁと。

 

 簡単に言うと、ヤクザ映画を撮るのはヤクザじゃない。というのか。

 

 絶望を描くのは、絶望した人ではない。ということ。

 

 どこまで行ってもフィクションで。

 

 絶望を描いているうちにあっち側へ行ってしまった芸術家はたくさんいますが。

 

 そうではなくて、あくまで自分を投影したフィクションに見えるので、安心して鑑賞できました。

 

 よくできた映画を見ているような感じというか。

 

 吉村芳生さんの絵はまた全然違っていて、これまた面白かったです。

 

 一番好きだったのは、金網を描いていた絵でした。

 

 むこうと、こっち側を描きたかったのとはまた違う印象があり。

 

 パリの新聞に自画像を描いている作品群は、揺らぎというか、このままでいいのか?という自分の表現に異国で真摯に向き合っている痛ましさみたいなものがあり、それが非常に新鮮でした。

 

 技術的にはハイエンドなものを持っていつつも、結局表現の行きつく先は何なのだという「揺らぎ」を、還暦を越えて持ち続けられる感度の生鮮さに撃たれた感じです。

 

 あと、絶筆の絵の感想は「右利きだったんだなぁ」でした。

 

 絵の描き方が、自分と全く同じだったもので。自分が使っているパステルも、色鉛筆も、油と違って全体を調子みながらバランスよく描くことができない画材です。右利きなら左上から順に完成させながら描くしかないという、画材の呪縛がよく分かる絵でした。

 

 パープルーム大学2の、岸井大輔さんの演劇ワークショップは面白かったです。

 

 パープルームの何が苦手かというと、「美学生感」だったのだなぁと分かりました。

 

 九産大の芸学にいたときから苦手だった、あのモラトリアム感が、岸井さんの手法で肯定されていくさまをみるにつけ、20年前に見たかったなぁ~と思っていました。

 

 前にも書いたと思いますが、こういう展示とワークショップが現代美術館で可能になったという、感無量な感じがします。

 

 10年前なら、到底無理だったろう!と。 

 

 熊本の文化度もここまで来たんだ!と。

 

 そこの部分は大肯定ですが、やはりパープルームの中身については、「嫌い」なんだな、そこは確認しておきたいです。

 

 自分が好きに表現したいだけなら、ご自宅でどうぞと、仲間内だけでどうぞと、そういうことをきちんと言ってこなかったから今の地方のアートの現状があるので。

 

 確かに、自分が表現したいことをするのがアートだとすれば、すればいいよ。自由に。

 

 誰も止めはしないし。

 

 今、話題にしているここの地獄のような溝を、学生はきちんと教えられているのかな?とは思いましたけれども。

 

 角砂糖のような言葉の先に、何が待っているのかは、才能がないローカルアーティストとしては非常にきになりましたが、今回はそこまでのあれではなかったので、楽しめました。

 

 今回も展示の批評のようなものを書きました。

 

 サリュ

 

 

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