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2015年5月

2015年5月29日 (金)

最初にシャベルを入れた土のにおいは忘れない。

 今週頭から、早速、小川で借りた畑に行ってきました。

 購入したのは、シャベル、鍬、鎌、移植ごて。

 畑で最初に行うのは、溝を掘って行くこと。普通、トラクターで表面の雑草と、土を混ぜて、土を柔らかくしてから掘るらしい。

 ということを、隣の畑で柿を作っている方から聞きました。「トラクター入れてやろうか?」というありがたい申し出でしたが、無耕起なので自体しました。

 雑草が生い茂る、そのままの地面にシャベルを足で踏み込みます。

 最初のその踏み込み時に理解した。

 自分は大変なことをしようとしている!

 視線を上げると、広々とした雑草地。

 それは後悔ではなくて、むしろ逆のわくわくした気持ちでした。

 めっちゃ小さいけど、一歩踏み出したんだ!

 自分の中で、ゼロがイチになった瞬間。周りに誰もいないけど、バカみたいに一人で感動している。

 この瞬間を感じるために、生きているんだと思う。

 入れたシャベルを、土ごと掘り起こす。

 一瞬香ってきたにおいがありました。

 にんにくのかおり。

 数年前に亡くなった、妻方の叔父が、ちょうどこの場所で育てていたと、聞いていました。

 その叔父との親交はほとんどなかったけど。

 土が繋いでくれたんだ。

 誰も知らない、土の記憶。

 掘り起こすと、発芽していない生きているにんにくの種がごろごろ。

 知らない人と、一瞬で繋がる時間があること。知ってはいたけど、こんな形で感じることになるとは。

 農業を始めた、この初心の気持ちを存分に楽しみたいと思っています。

 最初に踏み出す一歩は、いつになってもわくわくと不安がワンセット。

 シャベルを入れる度に、ミミズやかなぶんの幼虫の命を奪っていく、切なさ。

 目の前でのたうちまわる虫達へ、祈りとそれでもやりたいから仕事を進める自分。

 毎日大量の命を食べていることを、改めて思い知らされる時間。

 頭では分かっていたつもりでも、畑で命と向き合うと、なんと自分の心の弱いこと。

 そうやって整た場所に、種をまく。

 種をまくこともまた、祈りなんだと気付きました。

 新しい命を芽吹かせたまえ。

 よかった。

 まだまだ色々、世界は驚きに溢れているんだ。

 世界ではひどいことが色々起こっていて、知る度に心が少しずつ死んでいくけど。

 この一歩から始めたい。

 確信をもって、大きな声で。

 小さい活動だけど。

 サリュ

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2015年5月18日 (月)

農業事始め。

 農業なんて大きいことじゃなくて、家庭菜園レベルから始めようと思います。

 熊本市の中央区か西区で農地を探していたのですが、なかなか見つからず。

 親戚が畑持っているかもな~と思い、色々それとなく訊いていたら、小川に農地が見つかりました!立派なもと畑です。

 八代の鏡にも、米をやれる田んぼがあるのが分かりました。こっちは少し遠いのと、いきなり米はハードル高いなと思い、一先ず小川の畑からやることにしました。

 そもそも何で農作物を育てようと思ったかと言うと、自分が食べているものがどうやって作られているか知らないのが何かむず痒いなと。

 前に天草在郷美術館をやっていた加藤笑平君が、「日本人は一回米をつくるべきだ」というのを、ようやくできる可能性が出てきました。

 米、作りたいけどね、実際に農地を探す段になって、これはえらい大変なことだとわかってきました。

 見つかんないんですよね、農地。

 今回は本当、たまたま!偶然!親戚が持ってる畑を借りられたからいいものの。米の田んぼは親が祖父から受け継いでたという、ミラクルがあったり。今は耕作放棄地になってる。

 耕作放棄地の問題は、新町・古町の空町屋と全く同じことです。構造は全く同じ。

 世代交代時のトラブル、思い入れ、親戚間の諸事情。農地ですから、思い入れと諸事情はさらにややこしくなる。

 耕作放棄地だらけなのに、指をくわえて見てるしかない。町屋と同じ。

 農業について、県庁、市役所、西区役所の農業関連の課にリサーチしました。

 市役所ひどかったな~(笑)

 無農薬でと言ったら、散々心を折る事例を1時間上げてきて「現在の残留農薬は厚生労働省が決めた基準値以下だから安全です」という、農薬推進の大規模農業経営の可能性を色々教えて頂けました。

 気持ちは分かる。分かるがしかし。厚生省と言えば、薬害エイズ、子宮頸がんワクチン(最近下火ね)、肝炎系と、多感な若者時代に色々あったからね。

 最近の中年は、少し疑って見ているんですよ。

 農薬の安全性なんて10年やそこらの臨床で分かるのかしら。もちろん数か月の動物臨床しかしてないんですけどね。何年もかけて調べるわけないね。

 でも普通の食事は、一生続きます。そこで蓄積されていく何かはないがしろにされていないかな。

 今、現実的に、この「ないがしろ」にされている日常の危険性について、考え始めている。

 若いときに感じていた、真綿で首を絞められるような息苦しさの原因が、この歳になってやっと見えたのだと思います。

 やはり、真綿で首を絞められているのだ、今の日本人は。

 その結果は、少子高齢化という結論として、突き付けられた。

 自分にできることは、自分にとって安全だと思える食べ物を作り始めること。

 そこでお願いなのですが、ここまで読んで頂けた根気強い方へ。

 鍬とか鎌とか、シャベルとか、使っていない農機具をご厚意で譲っていただけないでしょうか?

 買うのもいいのですが、使われていないものの方が、この活動に合っているような気がします。

 facebook、ブログコメント、メール、何でもいいのでご連絡頂ければありがたいです。

 よろしくお願い致します。

 サリュ

 

 

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2015年5月11日 (月)

食べ物について。

 最近食べ物が気になり始めたのは、年齢によるものだと思います。

 5年前に禁煙して、全身がむずがゆくなったことがありました。調べたら、毛細血管が再生してむずがゆくなるそうです。

 これが第一の発見でした。

 如実な体の変化。それ以降は、なるべく野菜を食べようとか、そういう位にしか気にしていなくて。

 その後、熊本の早川倉庫で月イチで開催されているアースデイマーケットで、食材を買うようになりました。このころから、無農薬無化学肥料が気になり始めました。

 新町三畳美術館で最初に扱った作家が、高島李恵さんで無農薬無化学肥料の作物の釉薬を使われる、陶芸家でした。

 農薬とは一体何か。

 さらに考えてみるきっかけになったのは、最近の新規就農者の方に野菜の「固定種」を育てられている人が目立つこと。

 固定種とは、品種改良される前の野菜の種類のことです。

 当然、見た目はあんまりよくなかったりしますが、味が濃ゆくて野菜食べてる!という気になります。

 野菜の品種改良は、味が良くて形がきれいにまとまる方向に行われてきました。

 F1野菜という言葉を聞いたのもこのころ。

 実に何も知らされていないまま、何を食べているのか全くわからないまま、日々食事をしていたことに愕然としました。

 最近は色々気にして、食べ物を買っています。

 今後は、どうにか自分で育ててみたいと思っているところです。

 すこしずつ、生活を変えていってます。

 サリュ

 

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2015年5月 7日 (木)

モードとアートの企画展を開催し続けることについて。

 モードの世界には、階段を上る為のルールがあります。

 ファッションショーを開催、デザインの型紙をとり、人件費が安い国の工場でライン生産。

 この、つまらないルールから脱却する為に、モードとアートの企画展を開催しています。

 ファッションショーというスタイルはとてもいいと思っています。

 ただ、パリやその他の都市で開催されるショーで、今年のトレンドが発表されますが、その消費者コントロールの感じが、非常に嫌な感じです。

 今の開催規模は、個人商店ですからたかが知れていますが、その中で何か面白いことができればいいのです。

 大規模展示も楽しいですが、アートの世界ではすでにランドスケープというスタイルがあり、大規模というスケールで言えばルーブル美術館には敵わないし。現代アートでも、パリに新しくできた展示場にはとてもとても。

 そもそも、グランパレで見たビル・ビオラとか規模的に呆気にとられました。

 そういう方面では、勝負できない今は。あくまで今は。いつかはね。

 5年前に比べれば、場所の規模は段々大きくなってきているし、レベルも上がってきました。

 これからも、自分たちの企画を深めつつ、少しずつ前へ進めればいいかな。

 熊本市現代美術館の今年開催のアートパレードには、久しぶりに新作を出したいなぁ。もちろん絵です。

 この夏、準備を始めます。

 サリュ

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2015年5月 5日 (火)

何をどうすれば、自分の心に届く作品を作れるのかな。

 最近、心が不感症になっているのか、大抵のアート作品を見ても何も思わない。

 こういう心持は、何かよくないとおもいつつも、どうにもならないでいます。

 そうかといえば、借りている駐車場に咲いてる花をじっと見たり。

 電車通りを歩いていると、たんぽぽのタネが風にのって流されていくのを見て立ち止まったり。

 昔から、自然の造形は素晴らしいというのは分かっていたから、風景画を見てもなんとも思わないことがほとんどでした。

 自然にアートが拮抗する為には、人間の「歪み」が重要。セザンヌを見ても分かる通り。

 最近は、そういった「歪み」を感じる、新しい作品になかなか出会う機会がありません。

 自分が以前描いていた作品には、確かに歪みがあるような気がします。

 しかし、今はそういう自分の「歪み」を突き放せるような心持になってしまいました。

 これは非常にいけない傾向です。

 絵描き的に進退を決めないといけない。

 以前と同じことを、同じ心持ではできない。

 一度、全部、技法から何から、一新しなくてはいけない。そうしないと前へ進めない。

 そういう場所に、来てしまいました。

 だからもう、パステル画は描かないし、そういう技術的なことは一旦おいておいて。

 何をどう描くか?

 それはもう決めています。

 これ以上は、言葉よりも作品で見せなければいけない。

 そういう感じで行きますよ。

 サリュ

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2015年5月 1日 (金)

和の感覚をアートとモードの企画にできないかな。

 最近思うのは、手の届く範囲をもっと大切にしたいな、ということ。

 食べ物や、住んでいる場所とか。

 アートにずっと触れてきて、ほぐれないしこりがずっとありましたが、答えが見えてきたような。

 現代アートの主流って、前例を踏襲しつつ否定の提案、この繰り返しで進んでいます。

 この根っこにあるのは、西欧植民地主義なんだと思います。征服して、新しい文脈で支配すること。

 そこに脈々と受け継がれてきたものをなぎ倒して進んでいく。

 だから、今世界中の現代アート未開拓のアート辺境地では、現代アートの文脈における伝統文化の収奪が起こっているように見えます。

 中国から始まり、東南アジア、今はアルジェリアとか紛争地域に移って行きます。

 そこでは、まだアートの文脈に組み込まれていない目新しい伝統文化が、アートピースとして評価されて流通していくブームが起こる。

 こういうことは、ずっと起こり得るのでもういいかなぁ、と思い始めました。

 日本には日本の良さがあるだろうと思います。

 日本の伝統文化を今更持ち上げる気もなく、では何を表現していくのか。

 日本が脈々と繋いできた日本たるものは何か。

 それはまさに、「繋いでいく」という精神性だと思います。

 100年後のこと、100年前のことを思いながら継続的に生きていくこと。

 現代アートの文脈と、相いれるはずがないです。

 大東亜戦争後、この精神性を教育で無くそうとしてきた日本。個性が大事とか。必要ない、個性なんて。幻想だから。

 自分も何かの「繋ぎ」なんだと思うから、世界に繋がっている実感が持てます。

 和を持って貴しとなすとは、協調とか同調圧力ではないです。

 自分がどんな人間だろうと、世界と繋がっているという感覚が「和」だと思います。

 決して、伝統和柄とかそういうことではない。無形の精神性のことです。

 後にまかせる人たちがいる、そう考えるから「特攻精神」が受け入れられたのでしょう。自分が個人として完結する考え方では特攻は無理です。特攻の是非は置いておいて。

 世界と切れて、個人主義人間が増えているのが、今の日本でしょう。

 この「繋ぎ」感覚を作品にできないか?

 アートとモードの企画として提案できないか?

 日々考えています。

 サリュ

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