映画・テレビ

2016年8月 8日 (月)

シン・ゴジラ雑感。

 シン・ゴジラを鑑賞して1週間経ちました。

 いまだに、脳内で熱狂が止まりません。

 久しぶりに、初代ゴジラを観ました。予算は2億円。

 先ず気付く、ゴジラが放射能を吐くときの黒目。調べれば何か出てくるかもですが、ここは置いておく。あれが、自分が吐く放射能から目を守る為のデティールなのであれば、相当考えた演出であることが分かります。

 今回、初めてエヴァを観た時と同じに、映画のデティールを愛でる方向に先ず行きました。

 そして、ふともう一度映画全体の印象を、考え直しました。

 先ず、反知性主義へのテーゼ。

 真面目に目の前の災厄に、時間を惜しまず冷静に取り組む姿勢への、適正な評価。

 映画を観終わったあとに残る、希望感。

 現実的に考えれば、とんでもない厄災を抱え込んだ今の日本でも、日々真面目に取り組んでいる官僚やテクノクラートがいる、という事実を忘れているのではないかと。

 何よりも、庵野監督が、ほとんど初めてと言っていいほど他者への共感を表現したこと。

 エヴァの歴史は、自分を信じることはもとより、他者と繋がってなおかつ、共感を得ることができるか?という、普通の人には当たり前のことが、実感として得られない!という庵野監督がもがく歴史だったと思う。

 TV版は、一番ひどくて、自分と他者との距離の遠さをひたすらに描く。

 例えば、ふしぎの海のナディアは、未来少年コナンを下敷きにした庵野監督の作品です。

 この2作、びっくりする位、主題が違います。

 宮崎駿監督のコナンでは、コナンとラナは、出会った瞬間に信頼できる相手だと分かる。そこには躊躇の微塵もない。その絆から、物語が生まれて行きます。

 庵野監督のナディア。これは、延々と最終話まで、ナディアとジャンの関係性の真偽が問われる。最終話の決定的な場面で、ブルーウォーターと実の父の命を引き換えに、ジャンの命を選択する(だったと思う)シーンが成立する条件は、ナディアが最後までジャンの心を測っているから。

 この、他者との関係性の真反対さ。宮崎監督の作品なら、信頼関係に揺らぎがないから、そもそもこのストーリーが生まれようはずもない。

 そのあとのエヴェ劇場版は、自分と自分のファン、エヴァが起こしている現象をリテラシーするという、自分を壊すのが目的なのか?というこれまた怖い展開でした。

 新しい劇場版は。。。これは長くなるのでまぁいいか。

 身を削るようなエヴァのプロジェクトを、一緒に乗り越えてきた人たちとの、働らいてきた経験を踏まえて。結婚して、女性という異質の存在とともに人生を歩んでいること。

 実人生の経験を、シン・ゴジラに投影して考察した結果。

 圧倒的に絶望的な世界が待ち構えていようとも、信頼できる他者とのチームワークと、冷静に対処できるパートナーと共に希望を持って生きよう。

 何か、庵野監督、年上なんですけど、ここまで来たんだ(成長)!感が凄くて、今後の作品は大変なことになるのでは。だって、宮崎駿監督が生来持っているものを、長年かけて人生の実経験から、確かに実感したのだと思う。

 そうでなくては、シン・ゴジラ観終わっての希望感が説明できない。あれは、偽りの表現なんかではなかったから。

 生きねば!

 だったから!

 実感として、ここにたどり着いた庵野監督が、次に作る作品はなにか。興味深いです。

 最後の2人のシーンは、庵野夫妻の関係性が、ちょっと出ているのかなとも思ったりして、感慨深いです。

 勝手な雑感なので、正しいとか間違っているとかないのですが。

 ひとつの作品をつくる為には、自分の全部をテーブルの上に乗せて、吟味して組み合わせていくしかないと思っています。嘘偽りない作品には、その過程がまざまざと見えるタイプのものがある。

 さて、ギャレス版ゴジラを借りてきました。これを見終わったら、シン・ゴジラ再見。

 今年の夏は、これで終わっていきます。

 最高!の夏。

 サリュ

 

 

 

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2016年3月 7日 (月)

クリスチャン・ディオールのドキュメンタリーで、初めてラフ・シモンズの考え方を知る。

 記事のカテゴリで、映画・テレビとなっていますが、10年以上我が家にテレビはないので、ほぼ映画の記事になるかと思います。

 さて、ディオールのメインデザイナーに抜擢された、ラフ・シモンズの初クチュールのショーケース制作過程を追う、ドキュメントを見ました。

 ラフ・シモンズの経歴が独特で、もとは家具デザイナーから独学でファッションを学び、自分のブランドを立ち上げます。ジル・サンダーのプレタポルテのデザイナーを経て、クリスチャン・ディオールのデザイナーに抜擢。

 最初の発表が、オートクチュールの作品。

 ファッション初心者に分かりにくいのが、プレタポルテとオートクチュールの違いです。簡単に言うと、プレタポルテが大量生産品のデザイン発表。オートクチュールは、オーダーメイドのデザイン発表。

 よく誤用で、オーダーハンドメイドの作品をフランス語でオートクチュールと言っているという勘違いがあります。

 それは違うのでご用心。オートクチュールを名乗れるのは、フランスでクチュールの協会に正式に入っているブランドだけです。

 ハイブランドのオートクチュールですから、映画でもありますが1シーズンでの個人注文金額は5,000万円というレベル。

 そういう顧客を持っているディオールというクチュリエに、パリのモードの底力を見る思いです。

 ラフ・シモンズはベルギーの田舎町出身で、フランス語も片言。制作現場も、言語が入り乱れて、混乱が続きます。

 この映画の最大の見所は、オートクチュールの制作を半世紀に渡り支えてきた、クチュリエ達の存在感です。

 デザイナーがプレタの経験しかないということに、戸惑いを感じながらも忠実とは言えない摩擦を起こしながら、ショーの実現までこぎつける。

 ショーの当日になっても、服が出来上がってこない!

 ギリギリまで妥協を許さない現場の空気が、ヒリヒリ伝わってきます。

 ここでわが身を振り返ると、規模は比較にもなりませんが、百貨店での企画展も同じような緊張を多々味わいます。

 結果が数字や評価で出なかったら、次はない。

 この緊張感を知っているかどうかが、結構重要だと思います。

 この立ち位置を、フロントに立っているか、とよく言います。

 ディオールと自分を比較すること自体、狂っているのかもしれませんね。

 でも、同じ道で勝負する以上、意識は同等と思い10年以内にどこかでぶつかるかもと思いながら映画を見ていました。

 憧れでもなんでもない。

 先を行っている、同業者。

 どんな地方にいても、この視座がマインドセットされていれば、いつかは世界のメインストリームに躍り出ても、おかしくない。

 熊本発、世界へ。

 もう、夢ではない。

 実現可能な現実のプランです。

 サリュ

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2014年8月19日 (火)

人類資金を見ました。

 日本には数少ない、陰謀の映画です。

 M資金を題材にした映画。
 
 最近では朝青竜が1億円詐欺にあってますね。
 
 昭和の匂いがする題材ですが、映画を見てみるとやはり昭和な感じがしました。
 
 時間と、登場人物と、エピソードの選択と集中がバランス悪くてすごくいい題材なのにもったいない。
 
 アクションのシーンは全部削除でいいんじゃないか。
 
 その尺を、他のエピソードに振り分ける。
 
 権力の怖さを十分描けていないのは、監督が日本人だからなのかな。
 
 終盤のタクシーからの一連の流れが、権力の怖さ、暴力の恐ろしさを全く意識してない無造作感がえ~となる感じでした。
 
 ネタが面白いだけに、おしい!となる感じがあります。
 
 原作が亡国のイージスとか書いた人らしいですね。
 
 こういうのは是非、馳星周に書いて欲しいですね。人間の欲望と、その先に希望はあるのか。欲望に身を焼き、破滅するタイプの作品のその先へ。みたいな。
 
 ジェイムズ・エルロイのLA三部作にはそれがあったからね。
 
 どうせM資金を描くなら、そっち方面がより面白くなったかもと思うわけです。
 
 アメリカンタブロイドとか、最高ですけどまだ映画化されないなー。J・F・ケネディーをあそこまで貶められる作者はいないからな。
 
 M資金、原作:馳星周(もしくはエルロイ)、監督F・フォード・コッポラでお願いします。
 
 サリュ

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2014年7月24日 (木)

スタジオ ジブリ鑑賞2連発、思い出のマーニー。

 見ました。思い出のマーニー。

 心が洗われるようでしたね。
 
 今の日本で、こういう映画を撮れるのはジブリしかないでしょう。
 
 直球。
 
 何か言いたい大人は封殺ですよ。まさに大人げないってね。
 
 確かに、ここから次回作は何を作るのだろうという興味は湧いてきます。
 
 宮崎、高畑監督作を作る為に特化した組織がどうなるのか?というクリエーターの組織の代替わりというあまり目にする事がない状況は、興味があります。
 
 エンディングは、耳をすませばへのオマージュだったのかな。
 
 近藤喜文監督、生きていればどう撮ったんだろう。
 
 ちょっとノスタルジックな気分になりました。
 
 大人が何か、言うべきでもないという映画のようです。
 
 対象年齢が12歳だと思うからです。
 
 そこに絞って何か言うならいいと思いますが、美しい映画だったし、素敵でしたよ。
 
 次はゴジラを見たい!
 
 平成ゴジラは全部見ているのです。
 
 ベストバウトのビオランテを越えるか、が見どころなのか。
 
 楽しみ。
 
 サリュ
 
 

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2014年7月23日 (水)

夢と狂気の国 スタジオ ジブリ ドキュメント鑑賞。

 このドキュメントで貴重だなと思ったのは、宮崎、高畑両監督と鈴木プロデュサーの40代の映像が見れることです。

 あとは、いつものドキュメントが高画質になった感じです。
 
 宮崎監督の面白さというのは、人間なら誰にでもある矛盾を追及してはいるんでしょうが、それを作品に出さないことかなと思いました。
 
 普通の作家なら、自己矛盾について悩む過程や、それに答えを出すこと自体を物語の筋にすることが多いと思います。悩む過程自体が、作家の表現欲のコアになっていることも多々あります。
 
 TV版のエヴァとかね。新しい劇場作品は違いますね、悩む主人公という「型」を選んでひたすら映像が持つエモーションとカタルシスだけを追求してるようにしか見えません。これは非常に現代アートの手法に似てる。
 
 何も考えなくても見ていられるし、そういう風に多分作っている。庵野監督には多分もう何も言いたいことがないに違いない。
 
 それでもエヴァという文脈だけでやってるって、そういうのも本当に凄いです。エヴァ以外に何か撮って欲しいってもはや思わないものな。
 
 歌舞伎だよもう。
 
 さて宮崎監督の凄みとは、劇中の登場人物たちは自分の行動に一瞬も迷わない。自己矛盾に悩まない。行動に対する結果を全て受け止めている。
 
 これは、自己矛盾について悩まないからじゃないと思います、むしろ逆で。悩みが深すぎるので、映画の登場人物に付託すると映画にならなくなるんじゃないか。
 
 もののけ姫のアシタカに若干悩みが見受けられたかな?という程度ですが、アシタカも審判役なのでやはり演出上迷わない。「曇りなき眼で見る」矛盾に引き裂かれた言葉。ありもしない立場を決めてその中で生きようと決めた男。現代人の理想ですね。
 
 風立ちぬで、堀越青年は、今度こそ悩むのかと思いきや、やはり悩みはそぶりも見せず行動する。この役は、アシタカの立ち位置ながら、もう一歩踏み込んでいる。凄いですよ、これは。
 
 すでにその姿勢は空恐ろしかった。
 
 覚悟の問題なんです。
 
 悩んでもいるし、傷ついてもいる。でもそれを表出する事が人生の本筋ではない。やるべき事を決め、やりきる。
 
 そして「生きねば」
 
 この宣言、感動的というより、脅迫にすら聞こえますよ、もはや。
 
 
 怖いドキュメンタリーです。
 
 自分も、一生の間にあそこまで覚悟を高められたらいいなと思いました。
 
 サリュ
 

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2014年5月18日 (日)

ティファニーで朝食を、を見てエレガンスを考える。

 今回は、あんまり真面目な話じゃないのでゆたっと読んで頂けたらと。

 言わずと知れた名作、オードリー・ヘプバーンの「ティファニーで朝食を」を見ました。
 
 えっと、普段はゾンビが高速で走るような、トロールがずんずん迫ってくるような、ヤンキーが学校の頂点を目指すような、魔法少女が何度も現実をやり直すような、壁の向こうから巨人が迫ってくるような、そういう作品ばかり好んで見ている訳ですが。
 
 オードリーの作品は、ローマの休日と、マイ・フェアレディーと、尼僧物語しか見たことがありませんでした。
 
 ローマの休日は、実は好きな作品です。あれを激しく嫌う人の意見はむしろ、拝聴に値する稀有な意見と思いますが。
 
 何で、ティファニーを見たのかというと、エレガンスって何?というもがきがあるからです。
 
 もうね、本当にもがいているのです。
 
 何がエレガンスなのか?
 
 今日、映画を見て、一瞬ここか?と思ったのが、ティファニーの店員のおじさんのシーンだった。
 
 先ず、昔からある駄菓子の景品の指輪に、文字を入れてくれという要求に「まだこの景品はあるんですね、懐かしい。ほっとする気持ちです」と言いながら、無茶振りに応じます。
 
 この当時、アメリカ自体がティファニーみたいな、新興のおしゃれカジュアルなビジューの店に慣れてなかったんだろうな、というシーンに見えました。
 
 店員のおじさんは、駄菓子の景品を楽しみにしてた子供時代があって、そういうのを引き出しに、非常にエレガントな受け答えをしていました。優雅さの表現って、一瞬なんですね。しかもそれが映画を決定する。
 
 ここかな。
 
 他は、割とそういうもんかな、という感じでした。
 
 この映画は、あのやり取りが全てという感じでした。
 
 エレガンスも全て、あのシーンに集約されていたと思います。
 
 そんな感じで、エレガンス、追求していきますよ~。
 
 余談ですが、アパートの管理人の日本人ユニヨシは、出っ歯で眼鏡の典型的な日本人に描かれています。一見するとなんでかな?と思いましたが、どうやらファッション雑誌のハーパースバザーの専属イラストレーターらしいですね?
 
 当時のファッション誌は、写真じゃなくて全てイラストでしたから。
 
 設定調べてませんが、多分、そうなんだと思います。
 
 サリュ

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2013年12月28日 (土)

年末だしミヒャエル・ハネケを勝手に語る。

 正直、ミヒャエル・ハネケの作品は基本的に誰にでも薦められる映画ではありません。

 遠山昇司監督に薦められて観た(そういう意味では、薦める方も人を選んでるよね多分)のですが、正直言葉も出ないほど凄まじいのです。
 
 ピアニストから入ったのですが、え~~~~~~?!となりながら、ラストでまたは~~~~~!となる、本当に他の何とも比べようがない映画なのです。
 
 巨匠という意味が、本当に分かる映画です。
 
 感想めいたことを言おうとすると、自分というものの暗部を白日のもとにさらけ出す覚悟が必要になるという、非常に危険な映画です。
 
 映画の構造をクリティックに批評しようとしても、無意味です。監督自体がもともと映画評論家なので、構造的に読み解くような映画にはなっていないのです、ピアニストは。
 
 説明めいたことは一切なく、そういうものだという主観で映画は進んでいきます。
 
 あえて説明はしません。是非、ご覧下さい。2時間のとんでもない体験ができます。
 
 次に観たのは白いリボン。
 
 もう、意味不明なくらい構造的な映画で、ピアニストであんだけ主観で観客を不愉快にしたのに、こんどは構造で不愉快になるという、とんでもない巨匠ぶりです。
 
 未だによく分かっていません、白いリボン。
 
 そして、もう一回みて理解しようとは思わない不愉快さの極み。
 
 さらに、愛、アムール。
 
 この愛は…
 
 夫婦の愛の間には、実の娘もは入れない。
 
 そういう事くらいしか、説明できない。
 
 見るたびにグラグラさせられるのですが、ファニーゲームだけはまだどうしても観れない。
 
 ハネケの凄さを知るたびに、気持ち的にどんどん遠のく映画です。
 
 暴力をハネケに描かせたらいかんよ~、という気持ちで一杯です。
 
 正直、一生のうちにファニーゲームを観ることになるかどうかは微妙なところです。
 
 ホラーや暴力描写の耐性は、とことんあるつもりですが、ハネケだけは別格で、精神にグイグイ押し入ってきます。
 
 どうしてああいう映画が撮れるんだろうと思います。
 
 ポカンと口をあけて、ラストまで観ている、そんな映画は他にありません。
 
 ミヒャエル・ハネケ、正月休みでDVD鑑賞など計画されている方々に、全くお勧め致しません!
 
 あれは正月から観るものじゃないです。
 
 ではいつ観るのかというと…
 
 いつ観るんだろ(笑)
 
 映画を完全に、只の娯楽だよ~関係ね~よ~と思えるとき、かな。
 
 自分の人生と、芸術を完全に切り離せる気持ちのとき。
 
 自分にはそういう気持ちのときがないから、ハネケの映画を見るときは覚悟が必要です。
 
 サリュ

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2013年9月 6日 (金)

【二回目】風立ちぬ

 風立ちぬ二回目鑑賞してきました。

 風は立っているか。
 
 ここに尽きました。
 
 堀越二郎の零戦を読み、戦前の歴史をリテラシーし直し、ジブリの仕事と日本の美術の関係性を洗い直し、色んな人の評を読み、できる限りの知識を導入して再戦の鑑賞でしたが。
 
 関係なかったです。
 
 この作品の前では、あらゆる批評が飲み込まれてしまう。
 
 受付けないのではなくて、どんなに予備知識を入れて行っても作品の前で無効化してしまう。
 この作品には、一人の作家の世界や人生に対する見識、感覚が、直截に表現されているからです。
 
 一人の人間を、評や言葉で著すには、映画評な付け焼刃の知識では無理です。相手は宮崎駿監督となれば、なおさらです。
 
 風立ちぬ評を下手にすると、生きてきた人生の深浅が浮き彫りになって大変なことになります。今回、信頼していた評論家の方々の何人かの評がかなり?なことになっていて、恐ろしいリトマス試験紙になっています。
 
 だから、風が立っているか、そこだけ感じ取れればいいのではないか。
 
 この映画の評を真っ二つにしているポイントはここが分かるかどうかだと思います。
 
 風が立ってしまった人間は、矛盾を孕みながらも夢に向かって生きる「しかない」
 
 業の話。
 
 それをエンターテインメントとして成立させている。
 
 あるラインを越えて、超特異点になってしまった。
 
 だから、風は立っているか?
 
 このメッセージだけ素直に受け止めます。
 
 立っているからね。
 
 サリュ

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2013年7月17日 (水)

風立ちぬの感想。ブログに書いておきます。ネタバレ無しです。

 感想、です、評、とかではないです。

 ネタバレはしません。
 
 ため息しか出ない、本当に素晴しい映画でした。
 
 崖の上のポニョで、見えかけていたものが見えました。
 
 宮崎駿という人間と、世界との関わり、です。世界は人間がつくるものです。人間には老若男女、外国、会社、ライバル、いろんな層があります。今回の主人公は、夢を持った青年です。もちろん、この青年が宮崎監督自身の分身であるのは間違いありません。
 
 この青年像が、実に的確です。
 
 色んな場面で、批判、反論、そういうものを簡単に許してしまうようなエピソードが積み重なります。先ずこれが、これまでの宮崎映画像を刷新します。今までは、誰かから突っ込まれるような脇の甘さはありませんでした。その映画的な完璧さ、武装を解いて、全くの生身になっている。
 
 この時点で、すでに涙が止まりません。
 
 そんな危険な事をしてまで、伝えたいことがある。その真っ直ぐさ。真っ直ぐで愚直に、矛盾を孕みながらも自分が目指した事を完結させる為に進んでいく姿が、映画の主人公と宮崎監督と重なるどころかほぼ同一視してしまっている。
 
 世界は矛盾に満ちていて、その中で譲れない夢の為に、ときには残酷なまでの精神的犠牲を負いながらも実現していく精神性そのものが「青年」だと思うのです。
 
 特にこの映画は、飛行機を作ることを夢見た青年が、ゼロ戦をつくる話です。当然、自分ではどうにもならない現実をまえに、自分で判断して生きて行く。
 
 自分がやっていることは正しいのか、その時点では自分も、誰も分からない。それでも、判断して、生きていくしかない。
 
 そういう当たり前のことを、描いた作品です。「理想に生きろ」そんな当たり前のことを超豪速球で投げられて、この球を打ち返す為には自分の全てを賭けないと、打ち返せない。
 
 だから、何か理想を追いかけている人が観ると、共感どころの話ではなくなる気がします。もうこれはヤバイ、1回観ただけでDNAに刻み込まれた感じです。
 
 美しい、ひたすら美しい映画です。
 
 只、全く何も感じない人も半数はいると思います。
 
 この映画に非を問える人は、全く「表現」というものを考えたことがあまりない界隈でしょう、ということは想像に難くありません。
 
 こんなに、キャラ商売を切り捨てて大丈夫?と、いらん心配までしてしまいますが。
 
 このブログを読んでいる方には、絶対お勧めです。
 
 サリュ
 
 

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2013年7月12日 (金)

信念より、気持ちや感情が大切にされる社会は混乱を招くのかも。

 何でそういうことを考えたかと言うと、メリル・ストリープ主演のマーガレット・サッチャーを以前見て、「そうだよ!」と納得したからです。

 現代では、信念を貫く生き方より自分に素直にとか、日々の気持ちを大切にとかのメッセージの方をよく目にします。
 
 とても東洋的な考え方で、あるがままに生きることを推奨していますね。
 
 非常に個人的な話なんですが、そういうもの言いがとても苦手だったのです。「他人の日々の感情とか知らんがな!」「あるがままに生きてるんじゃないよ!もっと自分を律せよ!」とずっと思っていて。
 
 考えがすっきりしなくて、ずっともやもやしていたのですが、映画の中でサッチャーの「気持ちや感情より、信念を大事にせよ」というのがあって、腑に落ちました。
 
 信念を貫く為には、色んなことを我慢したり、「武士は食わねど高楊枝」だったり、むしろ日々の感情や、ありのままといった姿の真逆です。
 
 武士は食わねど~は、半分笑いが入っていながらも、人を武士という型にはめた姿を尊敬している部分もあったはずです。貧乏しながらも、誇りを失わない。実利に敏い人から、嘲笑されながらも畏怖されていたと思います。信念を貫く人への、この畏怖の部分が重要です。
 
 信念は、貫く事で熱量を生みます。他人と共有することで、時代を回天させる程の行動力が引き出されます。信念の為に、自分の命を運命という天秤に載せる無茶までやります。
 
 日々の気持ちに素直に生きていては、信念を貫くときに発生する苦痛という副産物に、抵抗できません。とにかくきつい。自分に素直に生きていては、どうしても楽な方に流れてしまいます。
 
 そういう生き方が何故推奨されているのか、考えています。人々が、些細なことに一喜一憂することは誰にとって都合がいいのかな。
 
 毎日新しいトピックがあり、それについていちいち感情を動かし、日々揺れ動いていく気持ちに素直に生きて行く気はありません。
 
 自分の信じたことをゆれ動かさず、そのことに対してゆっくりとでも進んでいくような人間に、私はなりたいです。
 
 その為に生活に不都合が生じたり、気持ちを害するようなことが起こるとしても、それが一体なんなのだと言いたい。これまでも、色んなことに傷ついたこともあったかも知れませんが、そんな傷は信念を貫く為にはついて当たり前だろうと。今なら思える(笑)
 
 思えない時も、もちろんあったと。
 
 信念というものは、若いときには純度が高く、無条件にあったりします。歳を取ると、世間知が身について希釈されていきます。それは悪いことではなくて、むしろ当たり前で、そうしなければ大事なものを守れないことに気付いたときに大人になるのでしょう。
 
 そうなった時にも、譲れないものが果たしてあるか?
 
 大人になったときに、それでも譲れないものがあるなら、それ程純度が高い信念もないでしょう。
 
 自分の日々揺れ動く気持ちより、長年磨き続ける信念を大事にしたいなという話でした。
 
 間違った信念は、人類に大厄災を招きますけどね、ヒトラーや世界各地の軍事政権やテロとか。
 
 信念を日々リテラシーしてアップデートする時代なんだな(笑)
 
 サリュ
 
 
 

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