現代浮世絵師の心意気

2014年8月26日 (火)

「空」という概念が理解できるかどうか。

 日本美術と言いますか、もっと広げて日本文化としましょう。その真髄はどこにあるか。「空」という概念になるのではないかと思います。

 何もない空ではなく、全てが満たされた空です。
 
 そこまで行く為の初手として、型が必要になります。
 
 まず型にはまり、そこから自由になること。その自由のことを「空」というのでしょう。
 
 型に一度はまることは、日本文化の中では重要で、芸へのアクセスを容易にしてくれます。現代日本では家元制度が強すぎて、この型から一歩も出ないことが美徳のようになってしまっていますね。茶道なんて花嫁修業の一環だもんな。利休は切腹までしたのに、堕落もはなはだしいですね。
 
 美術の世界もそうで、最近日展のことが新聞ですっぱ抜かれていましたが、茶道と同じ道を歩いているんだなと思いました。
 
 現世でどう立ちまわるかの問題ばかりで、日本文化の精髄に近づこうという精神があんまり見えない。
 
 序破急の末の「空」
 
 どこまで自由になれるか。満たされた自由。
 
 だいたい、普通の美術家はこの満たされた状態になる前に寿命が尽きることが多い。「空」どころではない。
 
 この空は、わびさびじゃない気がしています。全てが満たされているような感じ。葛飾北斎だと鳳凰図、伊藤若冲だと鯨と象。
 
 凄いですよね。何かが満ち満ちてる!
 
 型からは完全に自由!
 
 自分がそういう絵を描けるようになる為には、もっと自分を満たさなければいけない。
 
 満たし方が足りない。
 
 現代社会は恐ろしく複雑になったから、膨大に満たさねばならないと思います。
 
 まだまだ、自分をある種の型にはめている途中です。
 
 サリュ

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2014年8月25日 (月)

表現したい事の芯が、うっすら見えてきた。

 何を表現したいの?たまに訊かれると、いつも答えに窮していました。

 特段過度に表明したい声明も、やむにやまれない個性もなく。
 
 自分を評するに、個性的な性格でもないし、どうしようかなコレという程普通。
 
 遠藤一郎さん、淺井裕介さん、アートホーリーメン、加藤笑平、ワタリドリ計画、中崎透さん、同時代を生きてる美術家に色々御会いしましたが、皆さんやっぱどっか普通じゃない。
 
 えっと、生島国宜さんは、あの人はこっち側です、今から説明します。
 
 話を戻しますが、何を表現したいの?
 
 これに対していつも「ニュートラルな」「フラットな」という言い方をしてきました。
 
 日本語だと「中庸」となるのかな。
 
 表現活動と関係なく、日々の生活を眺めると、そんなに起伏がない感情や出来ごとの中で生きているなと感じています。3.11の震災以前もそう思っていましたが、阪神淡路大震災のときと同じく、終わらない日常の拘束感は凄い。
 
 最近の美術家は、そういう日常の中に違和感を感じ、違和感のもとを探り当て、素早いレスポンスで作品に落とし込みます。
 
 その速度と鮮やかさを、度々目の当たりにして、すげー!と思いながら、でも自分が求めてるのはコレじゃない感が半端ない。
 
 では何かというと、前述の「ニュートラルな」になる訳です。
 
 毎日生きていて、常にポジティブ!逆にネガティブ…その間を揺れ動きながらどうにかこうにか生きている。
 
 その「揺れ」を生島さん以外の前述の美術家の表現にはあんまり感じないんですね。
 
 今回は出会った美術家オンリーの、大変に独断と偏見にて書いてるので大目にみて頂きたいのですが。
 
 中崎さんは、プロジェクトFUKUSHIMAで、状況に対する適切な適応力が凄くて、本当に尊敬しています。
 
 作品(表現形態)を見たときの、感覚の違和感は何だと思ったとき、「日本美術」が下書きにあるかどうかは個人的に、かなり重要と思いました。
 
 それは日本美術のセオリーとかではなくて、本質の部分で。
 
 生島さんの絵は、「無意味」という充実がある気がしてるんです。本質的に無意味だから、見ていると響いて来る。あの若さでどうして?本人は全然そんな感じはしないのにね。
 
 本来、日本美術の要は「無意味」だから儚く美しい。
 
 数百年残る為の西欧ARTの文脈と、相いれないのに同じ文化として、間違った文脈で混合してしまった悲劇と言いたいが実は面白いんだな現実は。
 
 日本美術の本質とは何かというと、先ず型にはまり、そこからどれだけ自由になれるか。それだけ。
 
 さて、生島さんは、そういう世界に生きている気がしていて。
 
 前述のアーティストは西欧のアートコンテキストと共に生きている気がしている。(ワタリドリはちょっとまた違うかも)
 
 どっちでもいいんだが、櫻井個人はそう見てるということです。
 あれ、自分の見解を述べるはずだったのに生島さんを上げた感じになってる?
 単純に絵が好きなんだよね。
 
 今回も支離滅裂でしたね。
 
 サリュ
 
 
 

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2013年7月 9日 (火)

新作パステル画「美人図 白虎」 制作に入ります。

 美人図 白虎(びじんず びゃっこ) 1620mm×900mm縦、ハードパステルです。

 前作、五美人図 朱雀に続く、4部作の二作目です。四方を司る神獣をモチーフに扱っています。
 
 M100号4部作なので、個展で発表するときはそれなりに広いスペースが必要となりますね。
 
 今作は、構図をかなり冒険する予定です。白虎を思わせるような、実際には虎は画面に現れない作画になる予定です。
 
 今自分にとって必要なリアルとは何か、を問うています。
 今のところは、日本、原発、宗教、男女、そういうことの価値感の地殻変動がテーマになります。
 
 絵画にテーマなんて、現代アートとは思えない保守絵描きなのですが、テーマを作ったり脱構築したりしながら一生現代浮世絵師をやっていく覚悟なのです。
 
 この20年で、日本のこれまで常識と思われてきた軸は、大きく変動しました。経済界でもイノベーションが起こらない限り、日本の行く末は暗いことが確実になってきました。
 
 また、部分的な文化イノベーションがうまくいっても、新しい村社会ができるだけだということも学びました。いわゆる日本のポップカルチャーとそれを取り巻くヲタ文化が代表的ですが他にもあります。音楽業界もそうでしょうし、あらゆる文化が壷化して交わりにくくなっています。
 
 壷化した文化を、交わらせようという動きもかなりあります。
 
 目先の変化に惑わされっぱなしのこの20年でしたが、自分には描くべきことがある、ことだけははっきり自覚しています。
 
 一見、絵の制作とは関係ない、しかもとっ散らかったことを書いていますが、自分の中では全部繋がっていて、そういうことを考えること自体が絵を描いているのと同じ位重要です。
 
 結局全部が絵に出ます。
 
 思考と精神性の統合が作品になるのか、改めて考えてみれば。その両方の方向性と深度が、作品の精度になっています。
 
 テーマとして切り捨てる部分がほとんどなのですが、切り捨てる部分を精査したかどうかは自分で分かるので、結局自分の作品は裏切れないということになります。
 思考を含めるので、作品にかかる時間は昔に比べて膨大に増えてきつつあり、ちょっとどうかと思いますが仕方ありません。描くしかないです。
 
 この膨大な時間を食い尽くす作品たちが、売れても、売れなくても描くしかない。今のところ売れていませんが。それでも時間を使い続けてしまうのが絵描きの業なのかも知れません。
 
 業の話に辿りついてしまいました。
 
 怖いですね。
 
 サリュ

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2013年6月 7日 (金)

blogの検索フレーズに「櫻井栄一 宗教」が1位になっている(笑)

 面白いですね。

 確かに今まで、日本の若い普通の美術家よりは多く、宗教について言及してきました。
 
 人間にとって避けられない事柄だからです。
 
 宗教、経済、政治、哲学、芸術、その他もろもろを追求し続ける中にしか絵描きの存在意義はないのですから。
 
 自分の画風を追及するのもいいでしょうが、趣味的な意味での美術に興味はありません。
 
 世間から隔絶したような美術的にだけ意味があるような、そんな作品を制作する気はないのです。
 
 作品が現実と交錯していくこと。
 
 そういう作品を制作する為には、人間の営み全般に、特に今は現代日本の状況を自分なりに捉えていく事に注意を向け続けています。
 
 宗教が現代でどういう働きをしているか、注意深く考察する必要性があります。
 
 以前も書きましたが、特定の宗教の普及の為ではありません。日本人の宗教観NOWを注視しているのです。
 
 宗教だけではなくて、政治、経済その他もろもろも同様です。
 
 日本の美術が、一見世間と隔絶しているように見える現実を、きちんと直視したいだけです。
 
 一人の美術家がやるべきことは、政治的、宗教的、その他諸々を発言によって意志表明することではなく、当然、作品によってやるべきです。
 
 そういう意味で、作品に宗教的、政治的な意味合いのものが表出するのは自分にとっては当然のことです。
 
 また、そこに偏った何かが表現されているように見えるのなら、絵描きにとっては極当然と言えるでしょう。
 
 偏った何かが絵描きの本質なのですから。
 
 何度も書きますが、特定の宗教の教義がどうとかではなく、現代日本における宗教の立ち位置を追求しているだけです。
 
 現代日本の美術家として、今後活動していく為の自戒です。美術界の特定のタコ壷には入らない。現実の世界で機能していく美術作品を、制作し続ける。
 
 その為には思想的なタブーをつくらない。
 
 当たりまえのことのようでいて、今の日本はこの真逆に進んでいますから、結構難しいのです。
 
 サリュ
 

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2013年5月14日 (火)

チキンレース。

 アート系30歳過ぎ人間は分かっていると思いますが、アートの世界は壮大なチキンレースをやっているわけです。

 プレイヤーに限っての話です。
 
 建築の世界とかもそうだと思いますが、よく「40歳からがスタートライン」とういう話を聞きます。
 
 年齢に関係なく、結局やめたらそこでお終いなのはアートに限った話ではありませんが。
 
 色々みてきてアート関係ほど、学ぶ学生の数、規模と現実的な回収システムがミスマッチな世界はあまり他にないです。
 
 地方の三流美大(九州産業大学 芸学卒)とかに通っている美大生、とかに向けて書いておこうと思います。5月だし、もうチキンレースは始まっているし。
 
 いつも現実的なことばかり書くので、夢も希望もないブログに仕上がっていることを自覚していますが、書かずにはおれないわけです。
 
 もし九産大の芸学とかに通っている学生がいたら、即、現実を直視して欲しいのです。今はどうか知りませんが、1998年当時の就職課に行ったら「真珠を磨く?」といわれたのは忘れられません。
 
 とにかく、半端なくつぶしがきかない学部、芸術学部。ほとんどの同級生は卒業後に専門学校に入りなおして就職しました。福祉とか、美容とか、デザインとか。
 
 今現在の自分も、実に様々な仕事をしています。アートでは食えない、というか、もう、アートと「食う」が結びつかない。
 
 手段じゃないから、アートが。
 
 「食う」のが目的だったら、アートじゃなくていいわけでしょう。
 
 美大生で一生涯アートに関わりたい人は、目的と手段を間違ってはいけません。
 
 アートを手段にした時点で、ほとんど絶望的です。無理ゲーです。もっと楽な手段を選んで欲しい。
 
 目的にして下さい。
 
 自分が目指すアートがあるなら、「食う」手段は全く別のことで構いません。
 
 だから、在学中にはアートに関する勉強とは別に、就職するなりの収入を得る現実的な問題へ、他の学部の学生以上に気を配って下さい。
 
 地方の芸学を選んだ時点で、現実社会への梯子が外されています。
 
 多分、在学中には教授とかはそんなことを言ってくれない。
 
 偽りの希望を刷り込まれるかもしれない。
 
 針の穴みたいなチャンスをものにした人の成功例を、延々たれ流しているでしょう。
 
 それは、ツテ、カネ、コネ、さらに才能すらない美術家の卵には毒以外の何でもありません。
 
 まぁ、聞くな。
 
 大体、地方大学の芸学に入っている時点で、おおよそ才能の有無は判断がつきます。
 
 え~と、夢も希望もないことを書こうとしているんではなくて、そんな状況でどうサバイブしていくかを書こうとしています。むしろ、その辺のうそ臭いポジティブシンキングなドーピング文より希望があるかも知れません。
 
 そのぶん、絶望も深くなるかもしれませんが。
 
 
 言おうとしているのは簡単なことで、アートで「食おう」とか思わないほうがいいということ。
 
 もちろん目指すのはいいです。むしろ目指して欲しい、自分も目指している。
 
 でもね、普通無理なんだ、それは。
 
 だから、作品を制作できる環境とか、活動を続ける環境を、整えるべきです。
 
 才能ない美術家にとって、アートの世界で何かを目指すというのは一生を賭けた長期戦なのです。決して短期戦ではない。何歳までにものにならなかったら…というよくある線引きは関係ない。そういうことを言う奴とは距離を置くべきです。アートなんて、基本、一生モノにならないのが普通なんですから。
 
 希望の話をしているのか、絶望の話をしているのか?
 
 違います。
 
 覚悟の話をしている。
 
 覚悟した先に何が待ち受けていようと、美術家ならしゃーない、そういう話です。
 チキンレースになぞらえましたが、まさに壮大なチキンレースをやっている感覚です。誰が先に諦めるのか。でも本当はちがう。
 一人でも多くの美術家の卵達に諦めて欲しくないから書きますが、一生うだつが上がらなかったとして、それがどうだと言うのですか。
 そんなつまんないことの為にアートを志すのですかね、違うでしょ、自分なりの表現を成す為でしょう。
 そこを見失わなかったら大丈夫。
 表現を追及するための条件を整えましょう。先は長いです。
 現世利益は、あればラッキーくらいの気持ちでいますよ。
 そうは言っても、果てしなく厳しい道であることは間違いありません。
 サリュ
 
 

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2013年4月17日 (水)

パステル画制作中、以前とは大きく変化し始めています。

一人の美術家として、東日本大震災以降の態度(作品)を表明しなければと思いながら制作し続けています。
 あの地震が、津波や地震の直接被害だけだったら、もしかしたら神戸の震災と同じ態度で受け止めて作品制作までいかなかったかも知れません。毎年どこかで天災があり、メディアの発達でいつも天災が起きているような錯覚さえ覚えます。
 天災による犠牲は、悲しいですしつらいですが、諦念もあることは確かです。それほど日本は天災が多い国です。地震に加え、大雨、台風まであります。
 しかし、福島第一原発の事故は全く違います。明らかに人災でした。
 津波に対する東電の対応とか、事故後のとか、そういう逐一の事象を言っているのではなく原子力を未熟な科学力で制御しようとした原発のありかた自体が人災という事です。
 バベルの塔の話を思い出します。
 人々は洪水を起こす神への復讐として高い塔を建設しますが、神は人のその姿を見て「言葉が同じだからこのようなことがおこるのだ」と考え、人々に違う言葉を話させた。結果人々はバベルの塔からバラバラに去っていった。
 天災が起こった後の、日本人の被害に対する対応は世界中が賞賛する位の素晴しさです。毎回そうです。一致団結した姿は本当に凄いと思います。
 しかし、原発の事故は日本国民の態度をバラバラにしてしまいました。
 原発への態度が何故バラバラになったかは、皆さんが日々触れている多様なメディアで扱われているのであえて言及はしません。
 只ひとつ分かったのは、完璧な科学技術など望めないということでした(カオス理論)。
 あらゆる意味で、失敗しない科学などないのに、安全神話を信じてしまった。人は自分に都合がいいように物事を解釈するように出来ている。
 日本国内に物理的に進入できない場所(結界)を生み出してしまった、これは人類の進歩という意味からすると、明らかに2歩も3歩も後退してしまった現実。
 まずはこの現実を受け入れることからスタートしたいと思いました。
 以前から、世の中の事象にリンクして作品を制作してきました。90年代から0年代初頭の「終わりなき日常」から急転直下、「いつ終わるか分からない日常」に変化しました。わが国はこんなにも脆弱な基盤の上にあったのかと、驚く程です。
 「終わりなき日常」の中では、外部の変化はほとんど感じられないため、どうしても作品制作の視点は自分の中を見つめることになります。自分というどん詰まりこそが、今の日本の姿ということになります。
 リーマンショック辺りから予兆はあったのですが、震災と原発事故で、日常は突然一変することが皮膚感覚で分かりました。
 そうなると、制作の視点は自分ではなく、社会へとシフトします。そうならざるをえません。外部要因で生死に関わる影響が自分に及ぶからです。
 そのとき、どのような作品を制作するのか。今までとは違う価値を追求しなければならない。
 美術家なので、態度表明は作品で明らかにするのが筋です。
 今、パステル画と展示プランと格闘中です。
 サリュ
It will continue to work while I think as an artist of one person, and must be expressed attitude since the Great East Japan Earthquake to (work).
Earthquake is that, if you had only direct damage of the earthquake and tsunami, it might work production to be not afford to be received by the same attitude as the earthquake in Kobe maybe. There is a natural disaster somewhere every year, I remember even illusion is happening is always natural disaster in the development of the media.
It is sad then sacrifice by natural disasters, is painful, but there is also a resignation is certain. Japan is a country so many natural disasters. In addition to the earthquake, there is heavy rain, until the typhoon.
However, the accident at the Fukushima Daiichi nuclear power plant is completely different. It was clearly man-made.
It is that way itself of nuclear power plant that was trying to control immature science of nuclear power that man-made rather than to say such as support of TEPCO to the tsunami, such as after the accident, the events one by one like that.
I remember the story of the Tower of Babel.
People will build a high tower as revenge to God to cause flooding, but thought "such a thing's happen words because he is the same" and to see the human form, God spoke different languages ​​to people was. People went away apart from the Tower of Babel results.
after a natural disaster has occurred, response to damage of the Japanese is the difference splendid in the world to admire. So is every time. I think the figure which was unity and amazing really.
However, nuclear accident I have to fall apart the attitude of the Japanese people.
I do not dare mention why attitudes to nuclear power plants or fell apart, because they are treated in a variety of media that you are touching every day.
Was that not expect such a perfect science and technology we know is single, (chaos theory)
In every sense, for no such science that does not fail, I've believed the safety myth. People are able to interpret the things convenient so good to me.
Had produced the (barrier) where you can not enter physically in Japan, and this from the meaning of human progress, reality two steps and three steps also had retreated clearly.
I would like to start from the first to accept this reality.
Previously, it has been creating works by linking the events in the world. All at once from the "day-to-day never-ending" in the early 1980s from the 1990s, has been changed to "everyday you do not know when end". And whether there was on top of the foundation so much vulnerable to Japan, it is enough surprised.
Because the in the "day-to-day never-ending", is not felt little changes in the external perspective of the work produced will be that stare at in the own way. It will be what end of the line of his, that figure of Japan today.
There was a sign from the Lehman shock around, but in the nuclear accident and the earthquake, daily found in the skin feeling to be suddenly transformed.
That happens, the point of view of production will shift rather than yourself, and to society. It is not forced to be so. Influence life-threatening in external factors is because extend yourself.
At that time, do you work what works. It must seek a value different from before.
It is a muscle so artist, attitude expression is to reveal in the works.
It is now struggling with the exhibition plan and pastel.
Salut

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2012年12月 9日 (日)

五美人図について。

 今年、一番影響を受けたのが熊本市の「チャレンジ協働事業」の創造都市を考えるの、プレゼン参加への下準備でした。

 熊本城下町大遊戯2012も、自分への影響という面から見れば大きいのですが、この創造都市を考えるという、思索としては過去最大規模の挑戦はとても意義がある事でした。
 先ず、日本がこれまでどういう発展をしてきたか、そこから調べ始めました。
 絵画作品を制作するのに、これまでは個人目線で斬り込む事をやってきたのですが、この事業のプレゼンをする事によって、自分がどういう日本の状況に置かれているかを、非常にクリアに考える事ができるようになりました。
 東日本大震災後で、さらに新たなフェーズに日本が入っていくときに熊本市は、どうしたら魅力的な都市として過ごして行く事ができるのだろうかと考えました。
 現在のわが国は、次々に新たな問題が浮き出ては置き去りにされ、決断すべきフェーズで誰も動かないという事を繰り返しています。
 それに対してアーティストとしてお前に何ができるのかと、20歳のころからずっと考えていて、結局大きい事は何もできないという無力感をそのまま絵にしてきたのです。
 どうしようもない現実というものがあります。
 アーティストとしての才能、プレゼン能力、ディベート能力、企画力。そういったものを持っていない事を、昔から痛烈に思い知っています。
 その時にどうするのか。
 何もかもを諦めて、自分の殻に閉じこもり、趣味的な作品を制作していくのも一つの手かもしれません。
 クオリティーを断念して、仲間と楽しくやっていくというのも(クオリティーを論じあうと必ず衝突しますが、熊本の現状を見渡して他人の作品のクオリティーに踏み込んでいるのはアートスイッチだけですそれでもゆるいですが)、楽でいいです。
 簡単に言って、自分にとって最高クオリティーの作品を制作する為には、日本の歴史、経済、アートのコンテキスト、ポップカルチャーのコンテキスト、世界の情勢、様々なものを意味も分からぬまま急ピッチで呑みこみ続ける事が必須です。
 この中でも一番軽視しているのはアートのコンテキストで、こればかりはどんなに呑みこんでもあまり意味がない気がしています。
 絵描きたい絵は常に明確にあるので、これがこうきて、次は、だからこうですという流れを知っても役にたたない。
 何を話しているのかというと、絵描きたい作品のテーマ、モチーフ(すでにこういうものが死んでいるのがアートの世界。アートテクストのリテラシーが今は一番重要というのは身にしみて知っているが、結局淘汰されます、それは。歴史に残るのはリテラシーという答えではなくて、問いなのはデュシャンがいきなり証明して、燦然と輝き続けている事実からも分かる)が激変したという事です。
 自分が世界に対して突き付ける事ができる問いとは何だ。
 今年はその事を明確に考える事ができるようになった年でした。
 今回制作している五美人図は、その足がかりになります。
 サリュ
 
 
 

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2012年12月 7日 (金)

四神「朱雀」五美人図、制作中。

 四神獣とも呼ばれる、青龍、朱雀、白虎、玄武。

 
 この四神をモチーフにして作品を制作中です。
 これまで、クラブに集う若者、みたいな括りでわりかし分かりやすく作品世界を構築してきました。それがNPOアートスイッチを立ち上げたあたりから、少しづつ絵描きたいものが変わってきました。
 
 それはそうでしょう。実際にクラブに行って、どうしてもクラブカルチャーを実見して描く、という興味は失せました。なぜなら、もうカラオケと同じ。クラブからは何も生まれない。若者が一過性の楽しみとして通り過ぎていく、そういう文化としてこの20年で定着してしまった。
 20年前、熊本に「クラブ」ができた時の、当時の若者としてのインパクトは凄かった。
 初めて行ったクラブで、いきなりイラン人と喧嘩になったり。カルチャーとして定着していないから、本当に訳が分からない奴らが、地方都市の中で初めて「ここにいてもいいかも」と思える空間だった。
 ライブハウスは、生音だから、気合い入れて行く場所で、「DJ」が流す音楽はそれとは違ったもう少しゆるい居場所感があった。あくまで、場の雰囲気を考慮した音楽をセレクトするという所から始まったから。
 当時の事を思い出すと、書きたい事が山のようにあるけど、今日はそういう事を書きたい気分ではないのであくまで絵の事を。
 今描いている「五美人図」中、まともに顔が見えるのは二人しかいない。それで何が美人だよと自分でも思うが、そもそも美人という定義が曖昧だ。
 あくまで、外見なのかね、美人というのは。
 そうだとしたら、あまりにも価値観が煩雑過ぎてよくわからない。今さら江戸時代と現代の美人観は違うと論じても面倒くさい。
 美人、とは何ですか。
 人間は皮の内側に内蔵を湛えた、一皮剥けば鮮血を噴き出す居た堪れない、そういう生物であるしかないだけの、血、そのものであるだけなのに。
 骨格が重要なんですか?
 どんな骨の形が好きなんですか?
 逆に聞いてみたりして。
 今絵にしている五人には、各世代の表層を担ってもらっている。
 葛飾北斎の五美人図は(福岡の確かボストン美術館展で見た!早く日本に戻って欲しい!)、同時代で会う事がない階級の女性を描いた。
 当時とんでもないコンテキストだと思う。天才。
 それをベースに考えた。
 現代の「五美人図」は、どうなる?
 詳しく言うと、ジェンダー論もかなり絡んできます。
 「そんな事を考えて絵を描くなんて、かなり変ですよね」と言われたことが過去何回かありました。
 そうかな。
 次の作品は四神「青龍」五美男図です。
 美人は人なのに、美男は男なんだな。
 さりゅ
 
 

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2012年6月21日 (木)

本来の形から離れて行くが、絵としては本来の形に近づいて行く。それが描くという行為と思う。

 私が描く作品は、割とというか、ほとんど写実的に見えますが、何も写実しておりません。

 100%想像というか、妄想です。もちろん、今回描いている「朱雀」は、受け継がれてきた姿を踏襲していますし人の姿も、人と判別できます。

 そうやって描いて行く中で、ほんらいの人間の形であればこうはならないよなという形を描きます。絵がその形を求めていると言った方がしっくりきます。

 この方向のラインを強くした方が見ていて気持ちいいとかいうものです。

 最初は、それが全然なくて、どう描けばいいのかさっぱりわからない。人を描きたいからずっと描いていますし、10年前はモデルを使ってまさに写実な描き方をしていました。

 しかし、それだと段々構図の面から制約が多くなってくる。構図を自由にしだすと、人の本来の形は絵としてはこうじゃないと、なってきました。かと言ってコンテキストをやりだすと自分が描きたいものから遠ざかるばかり。最初はやったのです、色々。マチエール作る為に、砂がきれいな海岸に行って砂を持ってきて、画面に塗りつけたり。紙を糸で縫って、これまた貼りつけたり。絵具をガンガンかさねて、絵具の層で何かできないかとか。

 でも、全部先にやられてるよねと。

 つまんないし。

 ミニマリズムでもう全部出たろうと。

 感動を引き出す方向はこっちじゃないな、自分にとって。

 そう思いました。

 コンテキストに関しては、後は作家個別による、組み合わせの違いしかなくて、それを追うよりは自分にとって気持ちいい絵を描いていく方がいいです。

 もう、ひどいですから、構図。作品集に入っていますが「ビール!ビール!ビール!」の人間のぶち切り方は、まさに個人的な快感原則に則ったものです。

 絵ってそういうものでしょ?としか言えない。技術を見せるものでも、コンテキストを見せるのでもなく、誰かを救うものでもなく、楽しませない、癒さない、満足させない、気持ちよくさせない、そもそも「いらない」、そういうもの。

 でも感動するんだよな。

 やっぱ、絵は人そのものなんだな。

 自分にとって、赤の他人はいらない人かもしれないけど、世界に自分一人では生きている意味はないから。全然知らない人の作品にも、感動するから。

 絵を描き続けるって事は、自分と向き合い続ける事なのでしょう。それは楽しいばかりじゃないけど、自分で居られるという事。

 だから結局、段々技術的な事は二の次になってきました。必要ですけど、一番じゃない。

 絵として本来の形に近づけば近づく程、自分に近づくという事なのか。

 サリュ

Work that I draw is, or rather with the assignment, it looks almost realistically, does not have anything to realism.

I imagine that 100%, is a delusion. Of course, "Suzaku" have drawn, even the human figure, and you can determine who has followed the appearance it has been handed down this time.

Drawn in the course of doing so, draw a shape that I do this if I do not if the original human form. This is coming nicely. Who said that asking for a picture of its shape.

Tokayuu is pleasant to see those who have a strong line in this direction.

At first, it is not at all, What should I draw no idea how. I have drawn much from the people you want to draw, ten years ago had been a graphic exactly how to draw using the model.

However, it becomes more restrictive in terms of composition and that it gradually. When you issue to free composition, the shape of the original picture and not as a human way, it has become. Away from what I just want to draw and give a context to say or do. The first is did it, many things. Matière to make, bring the sand to go to a beautiful sand beach, or smeared on the screen. Paper sewn with thread, and paste this also. Repeatedly pounding the paint, or do something with a layer of paint.

But, and I'm all been done before.

It boring.

Taro was another attempt at minimalism all.

Direction do not pull out the impression here, for me.

I think so.

For context, the latter due to individual writers, not only the difference of the combination, it is better than go chase it feels good to draw pictures for me.

The other, is terrible because, composition. How to chop the human "beer! Beer! Beer!" But already on, in accordance with the pleasure principle is very personal to the collection.

What would such a picture? Only and can not say. Also show the technology is, they show no context, no dipper is someone, not to entertain, not healed, not satisfied, not to feel good, "To begin with I do not need", as such.

I'm impressed by the demo.

As expected, painting itself seems to have a human.

It might be one for me, I do not want strangers in their own meaning a person is not alive in the world. In the works of those who do not know at all, because excitement.

That we continue to draw a picture, then perhaps that continue to face with myself. But it is not just fun, that is your own residence.

After all, it was technical gradually becoming secondary. I need, not the best.

Why should that approach close enough to the original form as a picture, that approach to you.

Saryu

 

 

 

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2012年5月26日 (土)

パステル画新作制作進行中。久々の制作途中画像アップ!

 色んな企画を進行中ですが、絵描きは絵描いてなんぼなので当然描いております。

 「四神 朱雀」 S100号縦です。

 ごく一部を久しぶりに画像アップ。

Photo

 この時点で純粋な描画時間は50時間位。

 パステル画というのは、定着性がない粉を画面上に塗りつけ、定着液で定着させながら描いて行きます。描いている時は、粉が下へ落ちまくって画面を汚しまくりなので、このように上から完成させながら制作して行きます。

 なので、途中でバランスがおかしい事に気づいても後の祭り。修正はほとんどききません。まさに一発勝負な画材と言えます。

 四神である朱雀と現代五美人図の構成になります。

 と言いながら、五美人中二人は顔が見えない… 美人かどうか分からない…

 想定完成時間は200時間前後になるでしょう。

 サリュ

Although a lot of planning is in progress, painting and drawing course is Nambour so drawn picture.

Issue is vertical S100 "Suzaku four God."

Up a small part of image a long time.
50 hours of drawing time pure ranks at this point.

It is called pastel, powder smeared on the screen there is no fixing, we will draw while rooted in fixing solution. When you are drawing, so pollute the screen rolled down to the lower powder earnestly, we will continue to work while on this way from completion.

So, too late realized that the balance in the middle of funny. Most of the hotfix does not hear. And art supplies can say that just one-shot deal.

It becomes a beautiful figure of the god Suzaku and modern four five.

She said, and two people in five beautiful face is not visible do not know whether beauty ...

Expected completion time will be around 200 hours.

Saryu

 

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